2011年8月2日火曜日

舗設、プログラム建築

ふ、と思ったんだけど、しかし実は長いこと考えていたんだけど、日本建築って、床と天井で空間を定義するでしょ? で、その空間って、畳が敷き詰められていて、結構均質な空間だったりする。例えば、桂離宮を訪問して書院を見学すると、畳が敷き詰められていて、部屋は襖で仕切られていて、それが閉じていれば個室、開いていれば、大広間となるし、多分、建造された当初はここは何の部屋っていうのが明確に決まっていたと思うんだけど、今見学するとどの部屋も同じに見える。ようは、かなりユニバーサルな空間に見える。
清家清先生が行っているんだけど、日本建築では、季節、年中行事などによって空間が自由に定義され、臨機応変に使用されていた。これを舗設という、らしい。
随分前から、伊東豊雄氏のセンダイメデイアテークやSANAAのロレックスラーニングセンターを見て考えていたのは、やっぱり床と屋根で定義されるサンドイッチ構造の空間と、イベントに応じて臨機応変に変化する空間が計画されているなぁ、ということだった。そして、そういった空間は、新しく来る使用の変化へも対応しうる空間であり、それらをプログラムとして取り入れているということで、僕はプログラム建築と名づけていた。
少なくとも、僕のミュンヘンの設計事務所での経験からは、空間をイベントに応じて変化するような空間を作り出そう、という話になったことはカツテ一度もない。そういう言及をヨーロッパに来て目にしたのは、ロジャース事務所は、会議に応じて机を移動するので、所員の定位置がなく、ミーティングの発生する場所で、あるいは作業の発生する場所で働くことになる、ということぐらい。
不幸にして、僕はどうやら、このイベントに対して、自由に対応する空間を作るという空間の構想力には決定的に欠けていて、それはどうやら、一度雑誌などに掲載された空間は、意地でも自分の設計活動へダイレクトに参照したくないというひねくれた性分にもよるのだろうが、そのような空間を提案しえたこともなければ、作り上げたことなど、ましてやないのだった。
でも、それが、日本建築の本質の一つであるのではないか、ということになれば、話はちょっと変わる。いつかどこかで、このアイデアを使ってみたいものだ。

2011年8月1日月曜日

都市造形の研究のはずなのに。。。

ミュンヘンの都市造形、それも境界部分の形成に着目して進めてきた論文が、ここに来て、何故か建築史、それもバロックから古典主義建築と都市計画との関係、それにひっからめて田園都市計画や、ゲニウスロキというなんだか、あらゆるものをひっくるめて記述しなければいけない様相を呈してきた。。まぁ、それはそれで楽しめるからいいんだけど、資料を漁るのに時間がかかる。
ところで、最近、我が事務所の所長のおかげで、そして藤森先生の展覧会準備に関わっていることもあり、建築の装飾について色々考えるところがあって、結局、アートアンドクラフトから始まり、アール・デコに至りモダニズムへと至る道筋で、何がそれらの動きを推し進めたのか、というと、一つは藤森先生のおっしゃっている、デカルト的絶対空間への希求、数学的空間。もう一つは、建築の本質を見極める目が、装飾から空間構成へと変わったのではないか、と思うに至った。というか、これ当たり前の周知の事実で、自分ひとりがこの変化を重大なものだと認識していなかったのではないか。
まぁ、それはそれとして。でも、やっぱり都市の粒子とグループフォームへと至る道筋が、バロック都市計画やクラシシズムには読み取ることが難しいんだよなぁ。