2012年9月16日日曜日

Villa Stuckよ

昨夜は妻が腹痛を訴え、ついに陣痛か、と色めきたつも、ただの腹痛でした。

しかし、来週中には本当に生まれそうです。
我輩はベイビーである、名前はまだない。。。。ってなことになりそうな予感です。

さて、そんなこんなで今日は天気も良かったので、家族そろっておそるおそる(というのは、いつ産気づくかわからないので)、Seidl Villaという場所に行ってきました。何故か。

その場所に、Walking Cafeが移動しているはずで、藤森先生がティーセレモニーをしているはずだからである。ところが、いってみると、茶室らしきものの影も形も見当たらない。カフェがあったのでウェイトレスのお姉さんに聞いてみると、何故だかわからないが今日は中止になったのよ、という。では、Walking Cafeはいずこに???
丁度、ドイツ人の友人がVilla Stuckの先生の展覧会を訪問していたので、彼に電話し、どうやらVilla Stuckにあることがわかった。これは、なにかトラブッタのかな?そのときはそう思った。

その友人と茶室の手伝いもした日本人学生とシュバービングで待ち合わせし、一緒にVilla Stuckへいくことにした。到着早々、館長に会って、どういうことなのかの説明を受けたのだが。。。

どうやら、警察と建築関係役所との手続きが煩瑣だったために、取りやめになったらしい。というか、Villa Stuckよ。一体いままで何をしていたんだ???Walking Cafeが町中を練り歩くという話はいつから出ていたんだ?おまけに、このことに関しての進行状況については何度か問い合わせていたが、なんだかいつまでたっても歯切れの悪い反応しか帰ってこなかった。
最近などは、メールしても何の音沙汰もなし。

思えば、色々この美術館のオーガナイゼーションはいただけない。
そもそも、展覧会を開くという時点で、契約書のようなものの打診がなかったようで、その点について藤森先生の秘書の方から厳しい言葉をいただいた。なので、すぐにでも契約面について説明してくれ、と伝えたのに、日本側は展覧会を開くにあたって謝礼が欲しいのか、と話を摩り替え、その後も延々と何も行動しなかったらしい(というのは、展覧会開催前に、日本側から遠回りで聞いたので)。また、日本側での展覧会準備にかかる費用はどうするのか、という話をしてもポカーンとして動こうとしない。あげくの果てに、ここでも展覧会開く場合には美術館から費用は出さない、展覧会が開かれるというのは名誉なことなのだから、という。それはそういうことなのかもしれないが、だったら書面で先方に説明してくれ、と再三伝えたのに、これまたポカーンとして、展覧会がオープンした後になってようやく日本側と折り合いがついた、という話をヒトヅテに聞いた。

そして挙句の果てに、Walking Cafeは動かない。あれほど先生も楽しみにしていて、自分もそうなることによって茶室が完成すると考えていたのに。そもそも動かすんだったら、展覧会の始まる前かオープニングに際して動かしたほうが宣伝効果も上がるし、なぜそうしないんだ、とういうことも所長にも何回か言ったし、Villa Stuckにも伝えたことがある。
しかも、茶室が動くというメールが自分には来なく、事務所の同僚に送られてきたのも、たしか約1,5週間前だったと思うのだが、それから推測するに、やっと1,5週間前に茶室の移動をどうするか、と考え出したのだろう。

更に言うなら、茶室の今後だが、これまたヒトヅテに、藤森先生が買い取るかもしれない、という話を聞いたことがある。なので、所長から、茶室をミュンヘンの第三者に売る、という話を聞いたときには驚いて、藤森先生が自分で買うという話も聞いたことがあるから慎重にことをすすめたほうがいいんじゃない?といったこともある。すると彼は、茶室を売って収入を得ないと展覧会自体が成り立たない、という。どうやら彼の中では、藤森先生が購入する、ということから、収入が入るという考えには結びつかないようなのである。だから、誰かが買った、という話を聞くたびに、ドキッとする。現在も売れた、売れないという話が飛び交っている。結局どうなったのだろう。

色々、開いた口がふさがらない状況である。
館長の性格や態度から察するに、これらの摩訶不思議な状況は彼に起因するのではなく、彼をサポートしているある人物のせいなのではないか、と考えているが。。。

それでも、こういった人たちを相手に、動かしていかなければいけなかったのだろう。が、残念ながらそういったことを主張して押し通せるだけの言語力が自分にはなかった。非常に残念。

しかし、展覧会は、先生の建築力のお陰で多くの人に訪れていただいているらしい。そして、先生がヨーロッパで更に認知され、藤森建築が更なる飛躍をするのであれば、私としても喜ばしく思うし、必ずそうなるものと確信している。

先生には、一つ一つの会話からも常に勉強させられることが多く、いただいた茶室の本からも多くのことを学ばせていただき、これからも学ばせていただく所存です。そして、藤森先生とご一緒にいらっしゃった奥様、藤森先生の探求の深さと飛躍する発想も、この奥様いるからこそ、なのだと理解しました。我が家では、日常の瑣末なことで鞭でびしびし叩かれるような毎日ですが、めげずに頑張ろうと思います。


2012年9月14日金曜日

藤森先生と奥様とテオドア・フィッシャー

今日のミュンヘンの天気は最高。
最近は、同僚と一緒に昼食はとらず、一人、次男の名前を考えていることが多いのだけど、今日もその例にもれず。なんか素敵な名前のキーワードでもないものかと思いながら、藤森先生の茶室学をぶらぶら歩きながらシュバービング地域を散歩。建築とか、茶室のワードから、なにか素敵な名前が思いつかないかなぁ。


ところで、今日、藤森先生が奥様と一緒にミュンヘンへお越しになり、事務所の所長、ハネスがかねてより計画していた、事務所周辺のテオドア・フィッシャー建築めぐりに、通訳としてご一緒することができました。奥様に挨拶すると、私のブログをご覧になっていただいた、とのこと!読んでいる人などほとんどいないと思っていたので緊張が走りました。これからもうちょっとしっかり書かないと。。。と思って、過去の記事にざっと目を通してみると、なんとも誤字脱字の多いこと。トホホ。

まず、フィッシャーの都市計画の本を先生へ見て頂いて、この本の作成に参加した同僚が解説をしました。先生もおっしゃられていたのだけど、図面上では、道路がほんのちょっとウネ、っとしているようにしか見えない、ましてや、そのちょっとしたウネでさえも見落としてしまいそうな計画なのですが、実際に解説されながら見てみると、なかなかダイナミックな空間が出来ていることに気づかされる。時間の関係で、自分が個人的に一番好きな街路計画がされている地域へは向かわず、クアフリステン広場を経由してエリザベーテン広場に面した学校建築へ向かう。この辺りは、この広場を中心に、建築家ハウベリッサーの意図した建築の序列配置、そしてハインリヒの提案したゾーニングの手法が、フィッシャーによって見事に融合され、さらに彼独特の、ジッテの思想に影響された都市計画手法が存分に発揮されている場所。
そして、地域の中心とされた学校建築の内部へと足を踏み入れた。

先生の目は、まず、表面をはつられたコンクリートへと向かう。ここからペレー、そして打ちっぱなし表現へと変遷していくのではないか、と。シュタイナーのゲーテアヌムの第一作の建物もそういう表現がされていたという。たしかに、南ドイツの初期コンクリート表現というのは、石に似せようという気持ちが滲み出している。
そして同僚とハネスが言うには、シュタイナーなどが活躍した時代は、がんじがらめの押し付け教育からリベラルな教育へと舵が切られたときでもあり、このフィッシャー建築も、そういった教育に対応できるように、ゆとりのある空間が設計されている、とのこと。
んーーー、ゆとり教育だからゆとり空間???ちょっとそれって飛躍していない?フィッシャーの建築って、学校建築に限らず、こういう空間設計をしていると思うんだけど。。。

そんな話をしていると、建物の管理人に偶然出くわし、ハネス得意の話術によって、建物の塔へ登れることになった。ずんずん階段を登っていく。
大屋根のある部分でテラスに出て、ミュンヘンの市街地を見晴らす。テラスの床が金属で葺かれていたので、通常は使われていないテラスなのだろう。そこで、ミュンヘンの主要建物の説明、建物の主要な特徴などについてハネスが説明。屋根の瓦を観て、バウワウとの共同設計における屋根材の話になる。藤森先生いわく、バウワウは空間計画は非常に良く考えているが、表面材など、防水紙をつかったりするし、あんまりマテリアルや伝統建築に興味がないのではないか、とのこと。いやでも最近は、伝統建築に興味があるみないたので、藤森先生の影響なのではないか、とハネスが突っ込んで、一堂大笑い。それにしても興味深いのは、人は何故か大屋根とパノラマを前に、すがすがしい気持ちになる、ということだ。なんで大屋根と都市のパノラマを前に話しをすると、あんなに楽しいんだろう。
ここから下へおりるのか、と思っていたら、更に上も見せてくれるらしい。ずんずん階段を登っていく。だんだん細くなっていく階段。もうどうでもいいやって感じで、階段の場所とか、階段の固定の仕方とかもだんだん雑になっていく。
最上部へくると、窓の開口部の下枠と床面が同じレベル、つまり、転落防止の手すりなし。みんな息を呑んで、ミュンヘンの町を見下ろした。
その後、大屋根の屋根裏部屋というか、広大な空間も見ることができた。自分的には、この屋根組みの見える空間が一番良かった。ドイツの屋根組みは、日本のように、屋根材を組み合わせて加重を下に導くという感じではなく、材を挟み込んで、結合部で押さえ込んで力を伝えているように見える。なにかしら緊張感のある架構。幾つかの材が引き抜かれ、新しい鉄骨のジョイントとなっている点に、伝統建築物保存の観点から、こういう事例はあまりない、とハネスは興奮ぎみ。
建物の出口では、コンクリートではなく、本当の石がはつられていて、やはり世紀の変わり目のコンクリートは石の代用品として扱われていたのか、と思った。

2012年9月2日日曜日

caffee in walking café

 
日曜日、語学学校の先生、仲間とwalking caféにコーヒーを飲みに行ってきた。生憎、長居が出来ず、追い立てられるように退出しなければいけなかったのが残念だが、団欒するには、本当にとてもとてもいい空間。みんなも退出するときには名残惜しそうだった。
せっかく色々茶室や藤森先生について解説するつもりまんまんでいったのに、みんなあんまりそういったことには興味がなさそう。空間そのものを楽しんでいるように見えた。
 
一緒にいった仲間の一人、ソフィーに、どの茶室が藤森茶室の中で一番好きか、と聞かれ、僕はwalking caféと答えた。 内部空間の素晴らしい茶室は他にも多々あるが、茶室と都市との関係から見ると、そして高密度都市、大阪、京都で磨かれた利休の極限空間としての茶室ということを念頭に置けば、このミュンヘンの市街地へ歩き出す茶室が、今までの藤森茶室の中でも一番コンセプトに合致するし、エキサイティングでもある。
 
残念ながら、茶室はまだ、Villa Stuckから歩き出してはいない。そういう意味では、その持てる才能を全開したとは言えない。これがマリエンプラッツまで引き出され、そして中でコーヒーを飲まれることによって、藤森先生の茶室は初めて完成するのではないだろうか。
そしてその日は近い。少なくとも、9月の半ばには、茶室は街へ歩き出すだろう。非常に楽しみである。