2014年8月24日日曜日

空手と百人一首

この歳になって、今年から本格的に取り組んでいるものがある。

一つは空手。息子が今年からクラブに通い始めたのだけど、そこに二人、抜群にセンスのある空手キッズがいて、彼らの型を見ているうちに、自分もやりたくなってしまった。今では息子よりも自分のほうがのめりこんでいる。

まず、型の基本形、追い突きと下段受けの習得には何ヶ月かかかったが、型は基本的に大極初段という、下段受けのみで構成される型のシークエンスから成り立っている。
今のところ平安二段の習得に取り組んでいるが、後屈立ちから中段内受け、前蹴り、突きと諸手受けとなるシークエンスが難しい。
しかし、この歳になって始めたので、腰まわりや股関節がガチガチで、蹴りの鋭さがなかなか生み出せない。まわし蹴りなどへっぴり腰蹴りと名づけてもいいほどの情けないありさまで、今は筋を伸ばすところから取り組んでいる。しなやかな蹴りを生み出す日がいつか来るのだろうか、心配であるとともに、息子は体の柔らかい内に、これらの技を習得させるつもりである。

もうひとうの百人一首。こちらは、まぁ、詩は好きなほうなので、だらだらと取り組んでいたものだが、ご近所様が一種の縁で百人一首会の主催者で、会の参加者の大部分がやるきがなくだらーと取り組んでいるものだから、自分もそのうちの一人だったのだが、いつの間にかジャパンフェストへの参加の際の渉外となり、かつ、主催者の牽引のもと、今年はわりとガチで取り組むことになってしまった。
息子は、平仮名がまだ読めない段階から参加させ、案の定、おとなしく座っていることなどできるはずもなく、静かにしろと注意している手前から敷畳を壊して自分にこっぴどく怒られたことがある。さて、痛くへこんだのは怒った自分のほうで、迷惑をかけるからと会への参加を一時見合わせようと申し出た。ところが、主催者女史の、寛大な諌めとも慰めとも、あるいは子供が楽しんでやっているその様子を見るのが楽しかったという言葉をいただき、引き続き参加することにした。
驚いたことに、息子は息子で、怒られたからもう嫌だ、というかと思っていたら、何故かカルタ会の雰囲気がいたく気に入っているようで、それとも主催者女史とその旦那さんの雰囲気がすきなのか、のりのりで毎回カルタ会に乗り込んでいく。最近は決まり字カルタで勝負すると、自分は赤く印刷された決まり字は見ないので、といってはなんだが、息子に負ける有様である。

それにしても、競技カルタとはやってみて驚いたが、頭の変換が必要な遊びである。今まで百人一首を覚えるには、上の句から下の句という順序で覚えていたが、それでは全く玄人には歯がたたない。下の句を見て、上の句の頭の数文字を連想しなければいけないのだ。
そういう風にカルタを眺めていると、今まで気づかなかった発見が幾つもあった。例えば、紫式部の下の句、’くもがくれにしよはのつきかな’。これは三条院の’こいしかるべきよはのつきかな’と、よはのつきかな、の部分が同じ。しらんかった。
また、’みのいたつらになりぬべきかな’。この上の句がなかなか出てこない。そこで白州女史の私の百人一首を紐解くと、謙徳公、つまり藤原伊尹。円融天皇や花山天皇の出てくるちょい前の時代を生き、河内源氏の流れを生み出す源満仲とつるむが、早死にしてしまう。その後、兼家が藤原氏の中で台頭し、かの有名な道長を含む三兄弟の時代へと突入、この道長がさきほど名をあげた三条院をいじめたおすのである。
このように、時代のシークエンスでとらえると、また百人一首の面白い点も見えてくる。今のところ自分が好きなのは、’つくばねの’の作者、陽成院から始まるわりと早い段階での流れで、まず、陽成院の宮中殺人から始まり、その折に自分が天皇になってもいいよ、と名乗りを上げた、光源氏のモデルとも言われている源融、そして結局天皇となった光孝天皇、そして宇多、醍醐と続く王統の中で、醍醐に疎まれ左遷された菅家、道真へと至る流れは面白い。そしてその中にどういうわけか清和天皇の后、高子との激しい恋を繰り広げた業平やその兄、行平の短歌が挿入されている。ちなみに、今まで高子にちょっかいをだした業平は、軽い遊びだったのだと勝手に想像していたが、実は業平もかなり本気だった、ということが白州女史の本を読むとわかる。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして

2014年8月17日日曜日

ニュンフェンブルグ公園の小館群

今日のミュンヘンは素晴らしい秋晴れだった。昨日までの天候が嘘のようで、暑くもなく寒くもなく、そしてからっと青空の広がる美しい一日だった。

家族が日本に帰省してしまい、暇をもてあましている。仕方ないので今日は何か新しい活動を、などとスローガンを立ててみたものの、なんら思いつかない。そこでマリア・ヒメルファールトという祭日だった金曜日はドイツ博物館に行った。午後をまるごと使って、船についての展示を詳しく見た。それはそれで面白かった。
地中海の造船技術と、北海などで活躍したバイキングの造船技術というのは、全く違うらしいね。ついでに造船の言葉が、建築用語に転化している例が散見されて面白かった。そして、それらの海上交通と、それを結ぶ陸路として発達したドイツ内陸部の都市などに思いを馳せ、一日が終わる。


今日は、前述の通り、素晴らしい一日だった。これは小都市訪問日和、と意気込んでは見たものの、いかんせん、日曜日である。ドイツでは、日曜日に小都市訪問しても、悉く店が閉まっているので面白くも何ともない。知人から聞いたバッサーブルグを訪問するのは、また天気のよい土曜日にすることにする。
しかし、一日中家にこもってしまうのはとてももったいない。だから、ニュンフェンブルク公園の中にある小館群を訪問することにした。チケットは4,5ユーロ、ミュージアムショップで購入することもできるが、それぞれの建物でも購入することができる。建物は散在しているので、全ての見学には3時間程度かかる。



ニュンフェンブルク城のある公園は、最初、フランス風幾何学庭園として計画された。17世紀末のことである。それが、風景式庭園に改造されたのは、19世紀初頭。英国式庭園(イングリッシャーガルテン)や、都市壁撤去後の旧市街の造形にも大変貢献した、シュケルという造園計画家による。
ところで、今回自分が訪問した小館群は、すでに18世紀初頭には建造されていた。以下にリストアップする。

アマリエンブルグ
バーデンブルグ
パゴーデンブルグ
マグダレーネンクラウゼ

このうち、バーデンブルグはフランソワ・キュビリエ、そしてそれ以外はヨーゼフ・エフナーの計画による。
さて、史実を書き連ねても面白くもなんともないだろう。自分の所見のみ書き連ねていこうか、と思う。

トータルの感想としては、ガイドブックの写真が綺麗すぎるのか、実際に見ると、落胆する場合が非常に多かった。そんな中にも、ハイライトは幾つかある。

一つ目はアマリエンブルグの鏡の間。小館の中に突如現れるロココの結晶には驚かされる。とはいえ、南ドイツのロココ建築を見慣れた目には新しさを発見することはできない。

アマリエンブルグ 鏡の間

二つ目、パゴーデンブルグの日本の間。これは、建物二階部分の、湖に面した部屋がそれだ。ヨーロッパの部屋の設えとして、木製の板が壁の腰部や、ドアの枠部分に貼られる場合が多い。この部屋では、その木板部が漆のような黒で、基本的に開口部周辺に取り付けられており、壁面の白色とコントラストをなし、心地よい部屋の分節とリズムを生み出している。シノワズリーとは明らかに違うジャポニズムであり、中国趣味の室内装飾が明らかに西洋風であるのに対し、日本趣味のそれは、明かに日本テイストが西洋テイストを凌駕してしまっていて、そのアクの強さに驚く。それが18世紀初頭という早い時期に採用されている、ということも驚きであったが、あのような広大なニュンフェンブルク公園の中にポツンと異質な空間が存在していることを思うと、凝固したオニキスが鈍い光を放っているような眩暈にも似た感覚に襲われる。

パゴーデンブルク 外観

日本の間
 
日本の間

三つ目は、マグダレーネンクラウゼの鍾乳洞風の、貝殻で覆われた礼拝堂だ。時、すでにイタリアではバロックの最盛期を過ぎた時に、ミュンヘンでは、ゆがみが再度矯正された、というか本物の貝殻が貼り付けられた、騒々しい装飾が採用されたというのも面白い現象だと思う。
マグダレーネンクラウゼ 礼拝堂

バーデンブルグはそんなに面白くなかった。そもそもキュビリエの建物ってそんなに好きじゃないし。

明日は映画の日なので、猿の惑星を見に行ってきます。