この歳になって、今年から本格的に取り組んでいるものがある。
一つは空手。息子が今年からクラブに通い始めたのだけど、そこに二人、抜群にセンスのある空手キッズがいて、彼らの型を見ているうちに、自分もやりたくなってしまった。今では息子よりも自分のほうがのめりこんでいる。
まず、型の基本形、追い突きと下段受けの習得には何ヶ月かかかったが、型は基本的に大極初段という、下段受けのみで構成される型のシークエンスから成り立っている。
今のところ平安二段の習得に取り組んでいるが、後屈立ちから中段内受け、前蹴り、突きと諸手受けとなるシークエンスが難しい。
しかし、この歳になって始めたので、腰まわりや股関節がガチガチで、蹴りの鋭さがなかなか生み出せない。まわし蹴りなどへっぴり腰蹴りと名づけてもいいほどの情けないありさまで、今は筋を伸ばすところから取り組んでいる。しなやかな蹴りを生み出す日がいつか来るのだろうか、心配であるとともに、息子は体の柔らかい内に、これらの技を習得させるつもりである。
もうひとうの百人一首。こちらは、まぁ、詩は好きなほうなので、だらだらと取り組んでいたものだが、ご近所様が一種の縁で百人一首会の主催者で、会の参加者の大部分がやるきがなくだらーと取り組んでいるものだから、自分もそのうちの一人だったのだが、いつの間にかジャパンフェストへの参加の際の渉外となり、かつ、主催者の牽引のもと、今年はわりとガチで取り組むことになってしまった。
息子は、平仮名がまだ読めない段階から参加させ、案の定、おとなしく座っていることなどできるはずもなく、静かにしろと注意している手前から敷畳を壊して自分にこっぴどく怒られたことがある。さて、痛くへこんだのは怒った自分のほうで、迷惑をかけるからと会への参加を一時見合わせようと申し出た。ところが、主催者女史の、寛大な諌めとも慰めとも、あるいは子供が楽しんでやっているその様子を見るのが楽しかったという言葉をいただき、引き続き参加することにした。
驚いたことに、息子は息子で、怒られたからもう嫌だ、というかと思っていたら、何故かカルタ会の雰囲気がいたく気に入っているようで、それとも主催者女史とその旦那さんの雰囲気がすきなのか、のりのりで毎回カルタ会に乗り込んでいく。最近は決まり字カルタで勝負すると、自分は赤く印刷された決まり字は見ないので、といってはなんだが、息子に負ける有様である。
それにしても、競技カルタとはやってみて驚いたが、頭の変換が必要な遊びである。今まで百人一首を覚えるには、上の句から下の句という順序で覚えていたが、それでは全く玄人には歯がたたない。下の句を見て、上の句の頭の数文字を連想しなければいけないのだ。
そういう風にカルタを眺めていると、今まで気づかなかった発見が幾つもあった。例えば、紫式部の下の句、’くもがくれにしよはのつきかな’。これは三条院の’こいしかるべきよはのつきかな’と、よはのつきかな、の部分が同じ。しらんかった。
また、’みのいたつらになりぬべきかな’。この上の句がなかなか出てこない。そこで白州女史の私の百人一首を紐解くと、謙徳公、つまり藤原伊尹。円融天皇や花山天皇の出てくるちょい前の時代を生き、河内源氏の流れを生み出す源満仲とつるむが、早死にしてしまう。その後、兼家が藤原氏の中で台頭し、かの有名な道長を含む三兄弟の時代へと突入、この道長がさきほど名をあげた三条院をいじめたおすのである。
このように、時代のシークエンスでとらえると、また百人一首の面白い点も見えてくる。今のところ自分が好きなのは、’つくばねの’の作者、陽成院から始まるわりと早い段階での流れで、まず、陽成院の宮中殺人から始まり、その折に自分が天皇になってもいいよ、と名乗りを上げた、光源氏のモデルとも言われている源融、そして結局天皇となった光孝天皇、そして宇多、醍醐と続く王統の中で、醍醐に疎まれ左遷された菅家、道真へと至る流れは面白い。そしてその中にどういうわけか清和天皇の后、高子との激しい恋を繰り広げた業平やその兄、行平の短歌が挿入されている。ちなみに、今まで高子にちょっかいをだした業平は、軽い遊びだったのだと勝手に想像していたが、実は業平もかなり本気だった、ということが白州女史の本を読むとわかる。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
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