2013年10月24日木曜日

ランズベルク

週末、ミュンヘン日本人会の日帰りツアーに参加し、ロマンティック街道にあるランズベルクという街を訪ねてきた。今まで、街歩きというものを解さなかった息子も、今回はなんとか最後まで頑張って歩き抜いた。参加したみなさんにもかわいがっていただき、感謝しきりである。

このランズベルク・アム・レッヒという小さな街は、名前の示すとおり、レッヒ川沿いにある街だ。今回、初めて知ったのだが、川の名前の男性、女性、中性(ってものがあるのかどうなのかわからないが)というのは(ドイツ語の名詞は、これら3つの性のどれかに属しているが、固有名詞は通常、そうではない)、川の神様の性別によるのだそうだ。だから、ミュンヘンを流れるイザール川は女性、そしてこのレッヒ川は男性。
そして、ミュンヘンの街の最初の公文書による歴史も、いわずと知れたハインリッヒ獅子公による橋の架け替えによる司教との紛争によって幕を開けるが、このランズベルクも、ハインリッヒ獅子公によってレッヒ川に橋がかけられ、塩を運送する際に通行税がここで徴収されたが、その施設から街が発展した。
従って、長い躯体を持つ塩を貯蔵する倉庫が川沿いに並び、嘗ては人の住まないバラックのごとくになっていたが、現在では改修されて住宅などになっている。その当初の性格から生じる単純なシルエットと、冗長にも感じる建物のファサードは同じリズムで玄関や窓などの開口部分が繰り返されるため一種、リズミカルであり、パースペクティブの強烈に効いた建物前の街路空間には、自分は常に圧倒されてしまう。イギリスはバースのロイヤル・クレッセントや、ロンドンのピカデリー広場に至る、ジョン・ナッシュ設計のアーク、ミュンヘンでいえば、テオドア・フィッシャーのポリツァイ・プレジディウムなど、こういった強烈なアークとパースペクティブの組み合わせを意識した計画というのは、一種定番の都市空間設計手法といえるが、アーク抜きでも、唐突にこういった長いファサードを都市空間の中に組み込むというのは、なかなか面白い手法であると思う。

ランズベルク・アム・レッヒ


ミュンヘンも、日本の都市と比較した場合、都市の中に歴史の痕跡を発見する機会が多いが、このランズブルクという街は、その比ではない。かつての都市壁もかなりの部分が現存しているし、(再建されたものかどうかはわからないが)、旧市街のレッヒ川側を流れる運河、ミュールバッハは「粉引きの小川」という意味だが、ここに沿ってかつてのパン屋や染色業者の小屋や塩の倉庫が林立しており、中世の面影を存分に残している。こじんまりとしているが、中世都市の雰囲気をゆっくりと味わいたい人にはうってつけの小都市ではないだろうか。

また、訪問した当日は、とても綺麗な街だけれど、歴史的な事件がないということでインパクトにかけるのではないか、と思ったが、どっこい、どうして、後々資料をあたってみると30年戦争におけるスウェーデン軍との戦場になったり、ヴィース教会を造ったドミニクス・チマーマンという有名人を輩出している。

ランズベルクへは、ミュンヘン中央駅から電車(レギョナルバーン)で片道50分程度。交通費、往復約25ユーロ
ヴィースの巡礼教会
ドミニクス・チマーマン


当日は、この街に在住している日本人の方に案内していただいた。以降、印象に残った場所について記していく。

ランズベルクの門と塔
ランズベルクには、都市門とくみあわされて幾つかの塔が現存している。北側にはザンダウエァ門、西側に二重の塔であるベッカー門とフェルバー門。東側には、ミュンヘンへへ至る、かつての主要門、バイヤー門。その門からの急な坂道を下り、中央広場へと至る場所に存在するシュマルツ門。

ザンダウエァ門は旧市街北に位置する。すぐ隣にはかつての染色場として使われていた建物が隣接している。門と組み合わされた塔はかつて火薬庫として使われていた。息子はそれを聞き、爆発しちゃうんじゃないの?と不安げだったが、ミュンヘンのカールスプラッツでは、かつて、実際に貯蔵してあった火薬に引火し、爆発、その後、セネッティーという建築家によって現在のカールス門がデザインされた、という経緯がある。


ベッカー門とフェルバー門は、西側に、重なるようにたっているが、これは、都市が川側に拡張した際に、フェルバー門が新築され、その際に、ミュール運河に面するベッカー門は破壊されないで残ったということらしい。名前の示すとおり、ベッカー門は、パン屋の門。かつて、ここにパン屋があったのだろう。フェルバー門は、染色屋の門。ともに、運河の水を必要とする職業である。ベッカー門は、内側からみる造形と外側から見る造形が全く異なり、敵は進入する時の印象と退出するときの印象があまりに違うので混乱したらしい。

旧市街側から
 
その反対側、かつての旧市街外側
 

バイヤー門は、かつての表玄関でもあり、バイエルンでも一番美しい門といわれているらしい。あくまでもらしい、ということで、自分的にはあまり感心しなかった。ここは登ることができる。息子君は塔に登るのが大好きで、ここでも率先してテッペンまで駆け上ってしまう。そして下まで降りてきたと思ったら、「もう一度、登りたい!」。小さな体で、人一倍元気。結局時間がなくて登れなかったが、この日は天候にも恵まれ、アルプスまで見える、すばらしい眺望だった。
この塔は、ミラノの貴族、ビスコンティー家から嫁に来た女王をたたえるものとして造られたらしく、塔の中央には、人が蛇に飲み込まれているようでいて、実は吐き出しているワッペンが飾られている。どうやら、映画監督のルキノ・ビスコンティーは直系ではないものの、この家の子孫らしいね。

旧市街側からの眺め。

外側から。おもちゃの塔みたい。

塔の上から、旧市街を見下ろす。

バイヤー門
見学期間:5月~10月
見学時間:10-12時、14-17時
大人 1ユーロ
子供 50セント

バイヤー門から沿道にたつかわいらしい住宅、商店建物を観ながら、急な坂道を下ると、中央広場に通じるシュマルツ門がある。門の広場側には、ナポレオン戦争のとき、フランス軍が打ち込んだという砲弾が飾ってある。

ドミニクス・チマーマン
アウグルブルクがエリアス・ホール、ヴュルツブルグがヴァルタザール・ノイマン、というように、ドイツの小都市では、必ずといっていいほど、都市の重要建築物を設計して、地元に根を下ろした建築家がいる。ここ、ランズベルクでは、まちがいなくこの人、ドミニク・チマーマン(1685-1766)がそうだ。彼は、叔父から漆喰職人として教えを受け、後に兄弟であるヨハン・チマーマンとともに南ドイツのロココ建築を代表する建築家となり、バイエルンへ来た日本人なら、必ずといっていいほど、ノイシュバンシュタイン城とセットになって観光に訪れるヴィース教会を造っている。ここランズベルクでは、ヨハニス教会と、旧市庁舎が代表作だろう。
今回、自分たちが訪問したのは、ヨハニス教会。前面の街路が狭いため、屋根の造形をはっきりと見ることはできないが、方形の外観をしている。が、内観は、楕円に近い平面となり、うねった壁面だ。これは、ミュンヘンのアザム教会を連想させる。正面の祭壇や、天井では、モチーフは三位一体、そして洗礼者ヨハネ。天頂にある三角形と目の組み合わせがちょっと気味悪い。

不気味でしょ。三位一体と、サロメによるヨハネの処刑

聖十字教会(Heilig-Kreuz-Kirche)
旧市街を下に臨む丘の上に建つこの教会は、イエズス会に属し、その前身となる教会はすでに1584年にこの場所に建っていた。ランズベルグの紋章は山の上に十字架がたっているモチーフなので、自分はこの教会をモデルにしたのだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。
この教会で面白いのは、ローマのコンスタンティヌス帝が天井がのモチーフとなっていることだ。最初にキリスト教を国教とした皇帝だから、ここでもその事跡がたたえられているそうだ。主祭壇の上部にはパースの効いた十字架が描かれているが、この十字架が観察者の移動に追従して、左右にパースが振れて見えるから不思議だ。これは、十字架の下部分が手前に見えるように書いてあるから不思議に見えるのであって、実は、十字架の下部分は奥に向かって描かれており、そのため、観察者が左右に移動すると、それに従ってパースも変化し、結局は、手前に突き出しているように見える十字架の下部分が観察者の方向に傾いているように見えるのだろう。
写真参照 中央上部の輝いている十字架に注目。

ヒットラーが「わが闘争」を執筆した牢獄
現在も刑務所として使用されているこの建物。残念ながら内部は見学することはできず、且つ、改装されており、ヒットラーが収監されていた部屋も、当時の名残を留めていない、とのこと。まぁ、これについては、もし観光の名所とするには復元すればいいのかな、と思うが、現在も刑務所として使用されているとのことなので、実際、公開するのは難しいのだろう。尚、同行していた方から聞いた話だが、近々、「我が闘争」がドイツでも刊行される見通しとのこと。その暁には是非、当時、ドイツ人を狂わせた稀代の詭弁を原文で読んでみたいものだ。
息子には、ヒットラーのことを説明するのはまだ時期早尚という判断から、本当の世界のダース・シディオスと説明しておいた。
この建物は1908年、Hugo von Höflによって設計された。

当時の様子などについては、このSpiegelの記事に詳しい。
アクセス:Hindenburgring 12、Landsberg Schule駅を下車し、駅上部に掛かる陸橋を超えてすぐ。

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