2014年12月8日月曜日

NSドキュメンテーション・センター見学 ミュンヘン

先日、工学院大学教授、遠藤和義教授がミュンヘンへいらっしゃり、ミュンヘン工科大学のトーマス・ボク教授とともに、2015年オープンするNSドキュメンテーション・センターの見学に行ってきた。

案内してくださったのは、なんとネルディンガー名誉教授。現在はミュンヘン工科大学を定年退職され、三年の任期を残し、NSドキュメンテーション・センターの館長を務めていらっしゃる。

朝、まず先月まで勤務していた事務所の改修工事を遠藤教授とともに見学、自分の描いたディテールがどのように施行されているか、確認するとともに、この物件はエネルギー改善が主な目的の改修工事であったので、この点について、遠藤先生へ説明をした。

その後、11時からケーニヒスプラッツへ行き、ボク教授とNSドキュメンテーション・センターの建物前で待ち合わせする。
ここで手短にこの建物についての説明を。詳細については、施設のHPにものっているので概要だけかいつまんで記述する。

NSドキュメンテーション・センター
http://www.ns-dokumentationszentrum-muenchen.de/zentrum

NSドキュメンテーション・センターは、ナチスの主要施設が集中していたケーニヒスプラッツのすぐそばにあり、施設の立地しているその場所には、かつてナチスの中央本部、ブラウン・ハウスが立っていた。その場所に、コンペで選ばれたベルリンの設計事務所Georg Scheel Wetzelの建物が建っている。
建物は、概ね内外とも完成している。



建物の特徴はなんといっても、その素晴らしい白いコンクリート内放しの壁にある。この壁は二重構造になっていて、開口部に立つ柱状のコンクリートはプレファブ、それ以外はなんと現場打ちコンクリート。白い色は塗装かと思ったが、なんと液状コンクリートに色素を混入して練り上げているそうだ。そのため、色の途中での変化を避けるために一層分は一気に温度調節をしながら打ち上げたそうだ。内部のコンクリート構造部は躯体暖房しており、そのため、外側表面のコンクリート層とは熱的には分断し、力学的には結合するという点が技術的にも難しかったそうだ。
この外側と内側コンクリートシェルの間に断熱層が存在する。

内部も、もちろん凝りに凝っている。床は二重構造で、ここにほぼ全ての配管設備が納められている。天井にはもちろん照明やスプリンクラー設備が取り付けられるが、それらは天井部分で配管されるのではなく、上部の二重床からコンクリート床を貫通し、天井に取り付けられたパネルに集約される。下から見上げるコンクリートの天井は、もちろん躯体暖房。

建物のシルエットはボックス型だが、プレファブの柱が並列した大きな開口部がこの建物の表情となっている。この開口部は歴史的に重要な周辺建物に向けられているため、それが既に展示の一部として借景されているが、と同時に内部では二層分の吹き抜けとなっており、隣接する一層分の展示室とともに変化のある一つの展示空間となっている。
見学者は、まず、エントランスから上層部へエレベータで上がり、そこから螺旋状に下階に降りてくることになるそうだが、今回はエレベータを使っての移動となったために、その動線を確認することはできなかった。
最上階は、会議室や来賓室、そして館長などの事務室となっているが、今回、特別に見学させていただいた。ケーニヒスプラッツ側から見下ろす広場は息を呑む素晴らしさ。エーレンテンプルの基壇を上部から見下ろすことができたのも良かった。

遠藤教授、下を覗き込むボク教授、ネルディンガー名誉教授
会議室からケーニヒスプラッツを見る。
肖像権については、名もないブログなので大丈夫、だと思う。

ちなみに、かつての音楽学校の入っていた、かつての総統の館は、現在音楽学校が入っていない、という話しであったが、どうなのだろうか。しかし、面白かったのは、この新しい建物から見る旧総統の館は、その背後ということになるが、空襲の傷跡もあらわであった。通り側は修繕されたが、背後の傷跡はそのまま残されている。また、遠藤先生のご指摘で初めて気づいたが、通り側のナチスや鷲のエンブレムが取り付けてあった穴を、建物上部に確認することができる。
地下にはカフェと資料室兼ライブラリがあり、展示内容についておさらいできるようになる。また、ホールも計画されており、これらを含めると、地上部分を約倍にした総体積となる。


とにかくびっくりしたのが、そのコンクリートのクオリティーの高さ。ネルディンガー名誉教授もおっしゃっていたが、これ以上の質のコンクリートは、ドイツではお目にかかることができない、とのこと。遠藤教授も、ドイツ建築もやればれきるではないか、と感心しきりのご様子でした。

総工費は23ミリオンユーロ。とにかく、素晴らしい建物だったので、オープンするのが非常に楽しみである。

その後、私が新しく勤務している事務所の現場を見学。所長のフォルカーが熱く英語で説明してくれたので、とても興味ぶかく、また事務所の傾向も良く理解できる物件であった。

遠藤教授には、日本からのお土産を頂き、とても感謝しております。特に協会認定という剣玉をなんと教則本とともに息子と自分にプレゼントしていただき、玉が皿にすっぽりはまる感触は、協会認定だと随分違うんだなぁ、と感動。生涯初めてとめけんにも成功し、はまっております。


2014年10月16日木曜日

「Aus der Noth Tugend zu machen」 Gottfried Semper

Aus der Noth Tugend zu machen

通常は、以下のように使う、ドイツの慣用句である。
Aus der Not eine Tugend zu machen 

災い転じて福となす、とでも訳すべきか、微妙にニュアンスのずれがあるが、今はより適切なことわざがぱっと浮かばない。このドイツのことわざを建築について転用したのが、今回、冒頭に挙げた「Aus der Noth Tugend zu machen」であり、ゴットフリード・ゼンパーの言葉である。この意味するところは、建築マテリアルは無限に延伸することはなく、必ずどこかに継ぎ目が発生する。この継ぎ目のことをドイツ語ではNahtというが、ゼンパーのNath=Nahtであり、この継ぎ目を活用して建築設計の要とせよ、という教えである。

ここですぐに自分が連想したのは、西洋建築のファサードだ。西洋建築では、いわゆる、コーニス、ドイツ語ではゲジムスはファサードを分割する非常に重要な要素であり、日本では町家などでは軒線をそろえるが、ミュンヘンの街では隣家との関係の調整は、このゲジムスに負う部分が多い。このゲジムス、ファサードを分割するだけあって、ファサードとは切っても切れぬ関係であり、ファサードとは、つまり街路に面する壁である。

ここで思い出されたのが、日本建築と西洋建築との違いだった。つまり、西洋建築とは壁である。実務でも常に思い知らされるが、鉄骨などによっぽど特化した事務所でないと、軸組み構造で家を考える機会にはほとんど出会うことがない(というか、ただ単に自分の現在勤める事務所がそうなだけなのかもしれないが)。壁というエレメントが非常に重要であるために、Aus der Noth Tugend zu machenという言葉も、非常に意味をもっているように思われる。

一方、日本建築に思いを馳せれば、空間は、床と屋根で定義され、サンドイッチの具が空間であるというイメージに近い。したがって、人間の動線空間の存在する領域では、Aus der Noth Tugend するべきものが存在していない、それが日本建築のイメージだ。かつて、日本の建築というのは、プログラム建築だなぁ、という感想をもっていた。とにかく、空間プログラムが単純ではなく、とても斬新なのである。明治から大正にかけて、生活様式が一変し、モダンリビングが求められた、そしてそれ以来、空間設計に確たる基準がなくなってしまった日本の建築シーンというのは、常に斬新な、生活様式を後追いする空間を追い求めてきたように思われる。そのため、若いジェネレーションによって新しい生活様式が展開されると、さて新しい空間設計が必要ですよ、と新しい設計コンセプトの発明合戦が喧々諤々と巻き起こる。これでは、日本の建築家さんが忙しいのも納得せざるを得まい。
ところで、ちょっとひらめいたが、日本での継ぎ目というと、マテリアルの継ぎ目はそれほど重要ではなく、緩やかに分割されつつ連続していく空間の継ぎ目が重要であり、それはもしかしたら、空間単位としての間と、その連続という現象に収斂されるのかもしれない。

ちなみに11月の半ばから、新しい事務所での活動となります。デザイン重視の事務所に移籍することになったので、色々できるかと思うと、とても楽しみです。スケッチしまくるぞーーー。

2014年8月24日日曜日

空手と百人一首

この歳になって、今年から本格的に取り組んでいるものがある。

一つは空手。息子が今年からクラブに通い始めたのだけど、そこに二人、抜群にセンスのある空手キッズがいて、彼らの型を見ているうちに、自分もやりたくなってしまった。今では息子よりも自分のほうがのめりこんでいる。

まず、型の基本形、追い突きと下段受けの習得には何ヶ月かかかったが、型は基本的に大極初段という、下段受けのみで構成される型のシークエンスから成り立っている。
今のところ平安二段の習得に取り組んでいるが、後屈立ちから中段内受け、前蹴り、突きと諸手受けとなるシークエンスが難しい。
しかし、この歳になって始めたので、腰まわりや股関節がガチガチで、蹴りの鋭さがなかなか生み出せない。まわし蹴りなどへっぴり腰蹴りと名づけてもいいほどの情けないありさまで、今は筋を伸ばすところから取り組んでいる。しなやかな蹴りを生み出す日がいつか来るのだろうか、心配であるとともに、息子は体の柔らかい内に、これらの技を習得させるつもりである。

もうひとうの百人一首。こちらは、まぁ、詩は好きなほうなので、だらだらと取り組んでいたものだが、ご近所様が一種の縁で百人一首会の主催者で、会の参加者の大部分がやるきがなくだらーと取り組んでいるものだから、自分もそのうちの一人だったのだが、いつの間にかジャパンフェストへの参加の際の渉外となり、かつ、主催者の牽引のもと、今年はわりとガチで取り組むことになってしまった。
息子は、平仮名がまだ読めない段階から参加させ、案の定、おとなしく座っていることなどできるはずもなく、静かにしろと注意している手前から敷畳を壊して自分にこっぴどく怒られたことがある。さて、痛くへこんだのは怒った自分のほうで、迷惑をかけるからと会への参加を一時見合わせようと申し出た。ところが、主催者女史の、寛大な諌めとも慰めとも、あるいは子供が楽しんでやっているその様子を見るのが楽しかったという言葉をいただき、引き続き参加することにした。
驚いたことに、息子は息子で、怒られたからもう嫌だ、というかと思っていたら、何故かカルタ会の雰囲気がいたく気に入っているようで、それとも主催者女史とその旦那さんの雰囲気がすきなのか、のりのりで毎回カルタ会に乗り込んでいく。最近は決まり字カルタで勝負すると、自分は赤く印刷された決まり字は見ないので、といってはなんだが、息子に負ける有様である。

それにしても、競技カルタとはやってみて驚いたが、頭の変換が必要な遊びである。今まで百人一首を覚えるには、上の句から下の句という順序で覚えていたが、それでは全く玄人には歯がたたない。下の句を見て、上の句の頭の数文字を連想しなければいけないのだ。
そういう風にカルタを眺めていると、今まで気づかなかった発見が幾つもあった。例えば、紫式部の下の句、’くもがくれにしよはのつきかな’。これは三条院の’こいしかるべきよはのつきかな’と、よはのつきかな、の部分が同じ。しらんかった。
また、’みのいたつらになりぬべきかな’。この上の句がなかなか出てこない。そこで白州女史の私の百人一首を紐解くと、謙徳公、つまり藤原伊尹。円融天皇や花山天皇の出てくるちょい前の時代を生き、河内源氏の流れを生み出す源満仲とつるむが、早死にしてしまう。その後、兼家が藤原氏の中で台頭し、かの有名な道長を含む三兄弟の時代へと突入、この道長がさきほど名をあげた三条院をいじめたおすのである。
このように、時代のシークエンスでとらえると、また百人一首の面白い点も見えてくる。今のところ自分が好きなのは、’つくばねの’の作者、陽成院から始まるわりと早い段階での流れで、まず、陽成院の宮中殺人から始まり、その折に自分が天皇になってもいいよ、と名乗りを上げた、光源氏のモデルとも言われている源融、そして結局天皇となった光孝天皇、そして宇多、醍醐と続く王統の中で、醍醐に疎まれ左遷された菅家、道真へと至る流れは面白い。そしてその中にどういうわけか清和天皇の后、高子との激しい恋を繰り広げた業平やその兄、行平の短歌が挿入されている。ちなみに、今まで高子にちょっかいをだした業平は、軽い遊びだったのだと勝手に想像していたが、実は業平もかなり本気だった、ということが白州女史の本を読むとわかる。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして

2014年8月17日日曜日

ニュンフェンブルグ公園の小館群

今日のミュンヘンは素晴らしい秋晴れだった。昨日までの天候が嘘のようで、暑くもなく寒くもなく、そしてからっと青空の広がる美しい一日だった。

家族が日本に帰省してしまい、暇をもてあましている。仕方ないので今日は何か新しい活動を、などとスローガンを立ててみたものの、なんら思いつかない。そこでマリア・ヒメルファールトという祭日だった金曜日はドイツ博物館に行った。午後をまるごと使って、船についての展示を詳しく見た。それはそれで面白かった。
地中海の造船技術と、北海などで活躍したバイキングの造船技術というのは、全く違うらしいね。ついでに造船の言葉が、建築用語に転化している例が散見されて面白かった。そして、それらの海上交通と、それを結ぶ陸路として発達したドイツ内陸部の都市などに思いを馳せ、一日が終わる。


今日は、前述の通り、素晴らしい一日だった。これは小都市訪問日和、と意気込んでは見たものの、いかんせん、日曜日である。ドイツでは、日曜日に小都市訪問しても、悉く店が閉まっているので面白くも何ともない。知人から聞いたバッサーブルグを訪問するのは、また天気のよい土曜日にすることにする。
しかし、一日中家にこもってしまうのはとてももったいない。だから、ニュンフェンブルク公園の中にある小館群を訪問することにした。チケットは4,5ユーロ、ミュージアムショップで購入することもできるが、それぞれの建物でも購入することができる。建物は散在しているので、全ての見学には3時間程度かかる。



ニュンフェンブルク城のある公園は、最初、フランス風幾何学庭園として計画された。17世紀末のことである。それが、風景式庭園に改造されたのは、19世紀初頭。英国式庭園(イングリッシャーガルテン)や、都市壁撤去後の旧市街の造形にも大変貢献した、シュケルという造園計画家による。
ところで、今回自分が訪問した小館群は、すでに18世紀初頭には建造されていた。以下にリストアップする。

アマリエンブルグ
バーデンブルグ
パゴーデンブルグ
マグダレーネンクラウゼ

このうち、バーデンブルグはフランソワ・キュビリエ、そしてそれ以外はヨーゼフ・エフナーの計画による。
さて、史実を書き連ねても面白くもなんともないだろう。自分の所見のみ書き連ねていこうか、と思う。

トータルの感想としては、ガイドブックの写真が綺麗すぎるのか、実際に見ると、落胆する場合が非常に多かった。そんな中にも、ハイライトは幾つかある。

一つ目はアマリエンブルグの鏡の間。小館の中に突如現れるロココの結晶には驚かされる。とはいえ、南ドイツのロココ建築を見慣れた目には新しさを発見することはできない。

アマリエンブルグ 鏡の間

二つ目、パゴーデンブルグの日本の間。これは、建物二階部分の、湖に面した部屋がそれだ。ヨーロッパの部屋の設えとして、木製の板が壁の腰部や、ドアの枠部分に貼られる場合が多い。この部屋では、その木板部が漆のような黒で、基本的に開口部周辺に取り付けられており、壁面の白色とコントラストをなし、心地よい部屋の分節とリズムを生み出している。シノワズリーとは明らかに違うジャポニズムであり、中国趣味の室内装飾が明らかに西洋風であるのに対し、日本趣味のそれは、明かに日本テイストが西洋テイストを凌駕してしまっていて、そのアクの強さに驚く。それが18世紀初頭という早い時期に採用されている、ということも驚きであったが、あのような広大なニュンフェンブルク公園の中にポツンと異質な空間が存在していることを思うと、凝固したオニキスが鈍い光を放っているような眩暈にも似た感覚に襲われる。

パゴーデンブルク 外観

日本の間
 
日本の間

三つ目は、マグダレーネンクラウゼの鍾乳洞風の、貝殻で覆われた礼拝堂だ。時、すでにイタリアではバロックの最盛期を過ぎた時に、ミュンヘンでは、ゆがみが再度矯正された、というか本物の貝殻が貼り付けられた、騒々しい装飾が採用されたというのも面白い現象だと思う。
マグダレーネンクラウゼ 礼拝堂

バーデンブルグはそんなに面白くなかった。そもそもキュビリエの建物ってそんなに好きじゃないし。

明日は映画の日なので、猿の惑星を見に行ってきます。


2014年1月12日日曜日

ベフライウングスハッレ クレンツェ

昨年末、レーゲンスブルク近郊にあるレオ・フォン・クレンツェのベフライウングスハッレと、アウディーの本拠地のあるインゴルシュタットを見学してきた。

クレンツェは、北のシンケル、南のクレンツェと比較されることの多い、ミュンヘンの誇る新古典主義の建築家である。ミュンヘンでは代表的な建築として、ケーニヒスプラッツにあるグリプトテークやプロピレーンがあり、ルートビッヒシュトラーセに面して多くの建物を設計している。ルートビッヒI世に重用されたので、ミュンヘン旧市街周辺部の都市計画にも貢献し、現在の都市景観に大きな影響を与えた。
しかし、そんなお題目とは裏腹に、実際に目にする建築は正直にいって退屈である。なにがよろしいのか、素人目には皆目見当もつかないだろう。その理由の一つに、戦災による破壊があるだろう。ミュンヘンの建物の多くが第二次世界大戦で爆撃され、多くが再建されたものであるが、グリプトテークのように、昔年の面影をあまり残さないものが多い。グリプトテークの修築はミュンヘン工科大学の教授であったヴィーデマンという建築家が行った。彼の建築もいくつか見学したが、いささか実直にすぎる嫌いがあり、あまり好きではない。戦後復興時に活躍した建築家は他にもデルガストなどが著名だが、おそらく物資の不足などにより、多分に実直すぎる。
そんな理由から今回もあまり期待せず、どちらかというとインゴルシュタットの見学を遠出のメインの目的に据えていた。

インゴルシュタットでローカル線に乗り換えしばらく進むと、濃霧に包まれた。電車を降りバスに乗り換え約20分。終点から更に約20分ほど歩かなければならない。そして目的のベフライウングスハッレは、濃霧の中、丘の山頂にドシンと建っていた。

ベフライウングスハッレとは、解放記念塔とでも訳すべきか、ハッレとは元来ホール、講堂のような大きな空間を指すが、日本語に訳すと塔という、外観重視の言葉に変換したくなってしまうので不思議だ。何から解放されたのかというと、ナポレオンの支配からである。ホールの床の真ん中には、こう記されている。
「我々ドイツ人は、解放戦争と勝利のために犠牲となったものを、決して忘れることはないだろう」
そして、この床に刻まれた文章から放射状に四方へ、そして天高く、内部空間は延びている。

霧の中のベフライウングスハッレ

この建物は、最初ルートビッヒI世がゲルトナーという、ミュンヘンにおけるクレンツェのライバル建築家に依頼したものであった。しかし、ゲルトナーの突然の死によってクレンツェに委託された。当時、ゲルトナーの設計は既に終了し、基壇の工事が既に始まっていた。ゲルトナーの設計からの変更は、クレンツェの裁量に任された。

その後、クレンツェは幾つかのアイデアを描いている。一つはパンテオンをモデルにしたものだが、現在の外観に比べると冗長な印象を与える。そもそも、パンテオンは訪問してみるとわかるが、ドームとしての外観はあまり意味がない。正面ポルティコに面した建物前広場は素晴らしいが、建物の裏側に回ってみると誰も見向きもしないような残念なファサードだ。従って、このアイディアが実行されなくてとても良かったと思う。

パンテオン裏側

 そして完成したベフライウングスハッレは圧倒的だ。何が圧倒的かというと、記念建造物として圧倒的に純粋だ。まず、小高い丘の上に建っているが、その丘のふもとに街があり、丘の中腹には木が茂っている。そして、半島のように突き出した丘の上に、ドシンとこの建物がたっている。そして、基壇の上に建つ塔の中に足を踏み入れると、円形のホールが広がり、床の中央には、例のテキスト。そこからまっすぐドームの円蓋へ、そして空へとただひたすら突き抜ける空間。それだけしかない。この建物には、本当にそれだけしかない。トイレさえもない。
ホールの内部は上方に向かって幾つかに区切られているが、壁は360度、一層目のエントランス部分以外は完璧に同じリズムを刻む。

 


建築家の目には、列柱の並ぶポルティコが、内部空間に小気味良い陰影を与え好感が持てる。これは、ルイス・カーンの二重ファサードを連想させる。

これまで、いくつものドーム建築を見てきた。パンテオンのドームは質素で素晴らしかった。フィレンツェのドーム(ブルネレスキ設計)はガチャガチャしすぎていて、なんだかわからなかった。テンピエット(ブラマンテ設計)の小ぶりだが底抜けの青空色は宇宙を感じさせた。アッレ・クアトロ・フォンターネ(ボッロミーニ設計)(http://cityraintree.blogspot.de/2010/09/s-carlo-alle-quatro-fontane.html)やサンテリジオ・デグリ・オレフィチ(ラファエロ設計)(http://cityraintree.blogspot.de/2010/09/s-eligio-degli-orefici.html)では、確かに天使の歌声を聴いた気がした。
ベルリンの、シンケルによる旧博物館のドームには正直かなり失望した。
回想してみると、有名な建築でもいいものから悪いものまでピンきりだが、しかし、クレンツェのこのドームは圧倒的じゃないか。。
建築に打ちのめされるという経験はあまりないことだが、今回は完敗だ。クレンツェはすごかった。こんなもの、どう頑張ってもつくれん。。。
テンピエット天蓋
 
旧博物館 ベルリン

その後、インゴルシュタットを訪問したが、月曜日ということもあり、ほぼ全ての博物館、美術館が休館。30年戦争の際に、カトリックの側でグスタフ・アドルフと戦い、この街で命を落としたティリーの亡くなった家はかわいかったが、その斜め向かいにあるアザム兄弟の教会が見れなかったのはとても残念だった。


ちなみに、この街はアウディー以外にも、小説の中で、フランケンシュタインが造られた設定の街で、そういったイベントも行われているそうだ。
仕方がないので、街で一番グーグル評価の高いケーキ屋でビーネンシュティッヒを買って帰宅した。