日本では桜の季節が過ぎ去った頃、ミュンヘンに桜前線が押し寄せる。この国には花見をする習慣などないから、もし桜の名所をこの街で見つけ出すことができれば、その空間を他人に邪魔されず占有することができる。そんな邪まな思いを抱き、そういう場所を探し続けているが、残念ながらなかなか見つからない。
話は変わるが、ある朝、偶然、知人のHさんと地下鉄の中で鉢合わせになったとき、その場に居合わせた彼女の友人であるCさんを紹介してもらったことがある。「そういえばね」とHさんはその際、付け加えた。「CさんはあのTheodor Fischer先生の設計した集合住宅に住んでいるのよ」。テオドア・フィッシャー先生とはミュンヘンの都市造形に多大な影響を及ぼし、ドイツ工作連盟 Deutscher Werkbundの初代代表を務め、ミュンヘン工科大学、シュトュットガルト大学で教鞭をとり、多くの名建築を南ドイツに残した建築家である。
地下鉄の中で、どうやってその集合住宅の一住居を借りることができたのか、家賃はいかほどなのかなど、色々聞くことができた。自分ひとりだけ中央駅で乗り換えしなければいけなかったので、お別れの際に聞いてみた。
「今度、住居の写真を撮ってもいい?」
それが昨年の終わり頃の話だ。その際、予定が折り合わず、でもHさんの提案で、桜の咲く季節にお邪魔してはどうかしら、ということになった。どうやらCさんの住宅の庭には桜がある、ということらしい。
そして、ミュンヘンに春の到来である。街のいたるところで緑が芽吹き、様々な花が咲き乱れ、百花繚乱の様相だ。Cさんに連絡を取ると、庭の桜も間もなく開花するという。そこで早速お宅に伺うことになった。さて、どんな写真を撮ろうかな、と考えたとき、まず頭に浮かんだのは、単純だけどフィッシャー先生の集合住宅には緑が多い、ということだった。バラ、芍薬、クレマチス、アジサイ、柳、松、藤、などなど多彩だ。そこで建物と植物のコラボレーションを撮りたいと思った。
そう思った理由はもう一つある。フィッシャー先生の集合住宅には囲い込まれた中央街路がある。街路の両端に建物が建っているので閉じられた印象を強く与える。閉じられているとはいえ、通り抜けることはできる。街路の一端は建物の一階部分がアーチ状のトンネルになっていて、反対側の街路は建物を回りこむようにY字になっている。でも、よっぽどのことがないとわざわざ通行しようとしないので、この街路はこの一帯では秘密の通路になっている。この秘密街路の両側には街路樹が整然と並んでいる。その梢がなみなみと緑を蓄え、その疎影が壁に落ちているのを見たときに思った、なんて優しい空間なんだろう、どうしたらこんな空間がつくれるんだろう、と。そこには建物と植物との秘められた関係があるに違いない。
建物と植物の関係は根深い。原初では建物と植物は別のものだった。それが次第に融合してゆく。古くはギリシャのコリント式柱にそれを見ることができ、その後、ロココ、アールヌーボー、ゼセッションなど、いつしか装飾として建築の壁を覆い尽くす。
ところが、近代ヨーロッパでは建築の装飾を否定し、壁本来の姿のほうが美しい、という壁復権運動があった。その決定版ともいえる建物がウィーンでセンセーションを巻き起こしたAdolf LoosのLoos Haus(1911)だ。ロースは歴史的様式建築の林立するど真ん中に装飾を剥ぎ取ったこの建物を完成させ、と同時に装飾の無い壁の美しさを著作の中で誇らしげに宣言している。
その同時代、奇しくもロースハウスと同年に建てられたフィッシャー先生のこの集合住宅も、外観はいたって簡素である。建築の装飾が否定される同時代的雰囲気の中で、フィッシャー先生の建物の壁に装飾はほぼない。その代わりといってはなんだが、本物の木が立っている。これはあたかも壁から消し去られた植物が、その壁の前に現出したように見えてくる。詭弁のようにも聞こえるが、その印象をさらに強くしているのが、例の秘密街路の空間の囲い込みだ。
この囲い込まれた街路は、まず最初にフィレンツェのウフィツィ前広場を思い出させた。外部空間が囲い込まれることによって内部空間に反転する、一種蠱惑的な内外反転空間。他にもシンケルSchinkelの旧博物館Altes Museumエントランス(Berlin)、Norman Forsterの大英博物館British museum(London)など、ヨーロッパでは素晴らしい反転空間を経験することができる。フォースターはミュンヘンのレンバッハ・ハウスLenbach Hausでも既存建物の外壁をエントランス空間の内壁の一部として取り入れ、大英博物館のようなダイナミックさはないものの、内外反転空間を実現している。
そしてこの内外反転空間特有のオーラがフィッシャー先生の秘密街路の空間を満たしたとき、街路樹と建物の壁が融合し始める。壁の表層になった樹冠の緑が風に吹かれて揺れたり、日差しの強さによって疎影の濃淡が変わるから、建物のファサードは息吹を吹き込まれたように常にユラユラと蜃気楼のようにその佇まいを変える。
そんな街路樹と街路空間を見ていたからこそ、Cさんの庭に咲くという桜は僕の興味を強く惹きつけた。桜というのはある種、雲、あるいは気配みたいなもんで、視覚的な匂いだ、とある女性作家は書いている。桜の視覚的な匂いを暗香として、この集合住宅のいでたちが幻想的に立ちあらわれる、それを見ることができるのではないだろうか?そんな期待を胸に、Cさんの住居へ向かった。
庭には、はたして一本の桜が立っていた。遅咲きの葉桜で、ハラハラと花弁を散らす霞のような幽玄さはない。しかし天に向かってしぶきを挙げたような錯綜した梢は花火のごとき春の瞬きを枝先に宿し、その一瞬を凍結させたようにそこにあった。樹冠を見上げると確かにそこにあるはずの壁と屋根は霧散したように空に溶けている。霞になるはずの花弁は溢れるような生命に満ちた若葉に引き止められて、匂いに昇華することなく視覚の側にとどまっていた。
ところで、この桜は建築化されたものなのだろうか?それともこの見立ては、日本人である僕にかけられた桜の魔術によるものなのだろうか?また次の如月の望月の頃が来たら、花の下で、桜と建築の関係を改めて考えてみることにしよう。