「言の葉の庭」見ました。
たかおが、かっこ良かった。あんな風に何かに夢中で、がむしゃらで、それでいて成熟していて。
15歳って、何にも考えていなかったからなぁ、自分は。
たかおを見て、僕は、最近、空手の道場で、息子と同じ学校にいっている男の子と話したことを思い出しました。考えている子は若いときから考えているんだなぁ、とちょっと関心したんです。
ドイツのレアルシューレでは7年生から、将来の進路が分かれます。息子の学校では、フランス語、物理化学、ビジネス、そして芸術コースがあります。息子は6年生だから、そろそろ自分の進路をまじめに考えたほうがいいよ、といっているんだけど、例にもれず、ポカーンと何もわかっていない様子。そこで、父のおせっかいが、また、活動しはじめました。息子には、「自分で色んな人に話しを聞け」、と何回もいっているんですが。おそらく彼のことだから、聞かないだろうことは目に見えてました。
わが空手道場には、そう、息子と同じ学校、同じ塾に通っている男の子がいます。息子とも知り合いで、2歳年上です。その子に、「君はどのコースを選んだの?」と聞いてみました。彼はビジネスコースを選んだそうで、一番の理由は、将来の仕事に役立つから。加えて、他のコースを取らなかった理由を説明してくれました。しっかり、将来のことを考えているんです。
そんなわけで、まぁ、たかおみたいに早いうちから将来のことをしっかりターゲットにすえてがんばっている人とか物語とかを見ると、賞賛の気持ちと、過去の自分への後悔と、色んな割り切れない感情がごちゃまぜになってなんだかモヤモヤしてきます。だから、あのキャラを見れただけでも、なんか良かったなぁって気持ちになります。
でも、あんな風に告白できるかなぁ。憧れの人を前にして。あの感情がない感じ、恋をも達観している感じ、あるいは恋の感情をコントロールしている感じ。不思議だなぁ。相手に伝えたところで、それが受け入れられなかった時の、その恐怖感みたいなものを彼は持ち合わせていない。告白が拒絶されたことによって、それまでその人に抱いてきた鮮烈な、そして肥大化してしまった感情、それを断ち切らなければいけないかもしれないという恐怖心。それがまったく彼には感じられない。それが彼の持ち味なのかもしれない。それが、僕と彼の決定的な違いなのかもしれない。でも、とふと思う。彼は、この点において、絶対的マイノリティーに属していると。こんな人は、めったにおらんだろう。そう自分に言い聞かせて、あの世知辛い自分の青春時代を慰めておこう。
雪野さんが、彼と距離を置いたときに、彼が抱いたのは、明らかに失望だった、と思う。それも他者への失望。自分が未熟で、自信が持てないから、彼女の対応は仕方ない、という感情ではない。あんたはずるい人だ、自分のまだ知らない世界に立って、あなたはすでに通り過ぎてきたこちらの世界を見ている。あなたは、気持ち、感情という同じフィールドに立つ事を拒絶し、社会的フィルターを盾に距離を置こうとした。
たかおは、あの時、しっかりと憧れのものと人とを追求して、行動に移していたからこそ、雪野さんに失望することができたし、非難することもできた。その言葉のありったけは、彼女の盾をぶち壊し、その人は感情というフィールドに舞い降り、感情はほとばしり出た。そしていう、「私はあなたに救われていたの」と。
僕には、あの非常階段の、普段は人々から忘れ去られたような殺風景なあの場所が、新宿御苑の非日常的な言の葉の庭に対応する、日常的な、そしてあの劇中の二人だけの「言の葉の庭」になったように思えた。
僕にも、そんな景色が、東京や京都や、今まで住んできた色々な場所に点在している。あの忘れることのできない時間も、結局は仮住まいの中のワンシーンであって、赤の他人から見たら、何にもない殺風景な場所。そこは引越しと同時に、空間的にはるか遠くのものになってしまう。
僕は、あの多くの、殺風景な場所たちが許せなかった。歴史と切り離された、まるで、テンプレートをそのまま実現したような、建築法規をのみ遵守した多くの殺風景な場所たちが、日本の大都会には多すぎる。当時の僕には、大都市そのものが、殺風景な場所が集積しただけのカサブタ集合体に見えた。
それがどうしたことだろう。この新海誠という人の手にかかると、それらがまるで、きらきらしたものになってしまうのだから不思議だ。なおかつ、日本を思い出したときに、そこに描き出されるシーンの数々が典型的な日本の風景で、なんかぎゅっと心を締め付けられたような感覚になってくる。そこで今、この時を過ごすことができる人々にうらやましささへ感じてしまう。
あの風景をここまで肯定されたら、僕がこの異国の地でやっていこうと思った、その決断の一つの理由を否定することになってしまうのではないか、と新海監督の映画を見るたびに思う。
代官山の古着屋、銀座マリオンの交差点、江古田で飼ってたシッダルータという猫、スペイン坂のカフェ、追い出された自由が丘のショット・バー、疎外感にさいなまれた新小岩の公園ともしくは勝鬨橋、阿佐ヶ谷の石屋さん、深夜に玄関の窓ガラスを割ってしまって通報されたあの小さな住宅、その近くの八百屋、三軒茶屋の釣堀、出会えたことを感謝した写真集をプレゼントして怒られた新宿のカフェ、そういえば一緒に勉強したっけなぁ、でっけぇ看板を盗んだフランス人と一緒にいたもんだから自分が怒られたこともあったなあ、ああ、やっぱり僕にとって東京はそういう街で、でもだからといって、二度と住むこともないだろう。
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