今日、所長に、とても興味深い建築家を教えてもらった。
オランダの建築家。備忘録として書いておく。
dom hans van der laan
旅について特集したHPを作成中です。 ミュンヘン周辺を中心に、訪問した国、街の基本情報から名所などについて書いています。是非、旅の参考にしてください! 下のリンク 旅色眼鏡からどうぞ! ↓
2011年11月11日金曜日
2011年11月1日火曜日
フンデルトバッサー
まぁ、ついでといっては何だが、とりあえず見ておこう。そういう感じでウィーンのフンデルトバッサーを見に行った。
そんな場合には、大概食わず嫌いだったと反省することになる。ロマンティック街道もそうだった。訪れる前はちょっとなめていたのに、実際に訪れてみると圧倒されてしまう。一般受けするものにはハスに構えてしまう中二病的傾向はなかなか消えてくれない。
まず最初に訪れたのは、フンデルタバッサーハウス。特徴はなんと言っても、柱、窓枠、色で分割された壁面。窓から生える樹木。
一階と二階にはカフェ・レストランがあり、その中で寛ぐことができる。
こちらは、近くに建つフンデルトバッサーミュージアム。色の基調は異なるが、プリンシプルは同じ。これら建物で面白いな、と感じたのは、Baummieter、つまり住居人ならぬ、住居木。建物の一部を木を住まわせることにより、自然に帰る、というコンセプトが特に強調されるわけだ。人間の排泄物を利用してこれら木を育てるスケッチなども描いてあり、建物が一つの完結した世界、ビオトープとして構想されていたことがわかる。
展示してあった都市計画。地面がうねり、地表の下に住居がある。
こちらはウィーン、北部にあるゴミの焼却場。塔が目印。近くには以前紹介した、ザハ・ハディドの集合住宅が建つ。右側の道路沿いの列柱がとてもカラフル。
彼の建築は、正直にいってしまうと、そんなに深くない。簡単に分析してみると、こういえる。まず、彼の手によってフンデルトバッサー的エレメントと化すのは、建築の基本的エレメントだ。壁、床、柱、窓、バルコニー。建築的空間が新しい構成の元に組み替えられることはほぼない、といっていいだろう。つまり、彼の構想は建築的エレメントにとどまり、それ以上に進むことはない。これが第一のフンデルトバッサー的法則。
平面はそのまま存在することを許されていない。常にうねる、ストライプ、色の平面で細かく分割される、第二のフンデルトバッサー的法則。
柱も色と形によって分割される。垂直性も、ただそこにあることを許されない。第三の法則。
窓、バルコニーもしかり、窓の輪郭そのっものが崩されるか、曲線によって囲まれる。第四の法則。
樹木との共生。第五の法則。
そして、注目するべき最大の効果は、これらの法則により、一つとして同じエレメントが存在しえないことだろう。全てのエレメントが個性的。僕の家の窓は、こんな形。君の家の窓はこんな形。家にだって、集合住宅の各住居にだって個性はあってしかるべきじゃん、そんな主張。
これってかなり注目するべき主張なんじゃないだろうか、基本的なことは忘れたくないな、そう反省させられる。どこかの馬鹿な建築家のように小難しいことばっかり言ってないで、もっと野生的でいいんじゃないの、って思わせてくれる。
ついでに、ダルムシュタットで見てきたWaldspiral、森のスパイラル。
これ、年に何度かしかない見学のチャンスを逃してしまって、深く落胆。あー、中、見たかったなぁ。残念。
2011年10月7日金曜日
エゴン・シーレ
2011年9月25日日曜日
アドルフ・ロース
ふぅ。やっと、ここまで辿りついたか。
今回紹介するのは、ウィーン訪問の中でももっとも感銘を受けた建物の内の一つ、アドルフ・ロースの通称ロースハウス、現在はライフアイゼンバンクという銀行が入っている建物、そしてその他ロース建築諸々。
Looshaus
Bauzeit: 1909
Ort: Stadtbezirk 1, Altstadt

ロースハウスはハプスブルク宮殿のミヒャエルトラクト、そしてミヒャエラー教会が隣接する円形のミヒャエラー広場に面している。
最初にこの広場を訪れると本当に感心してしまう。ああ、ロース、本当にやってしまったんだなぁ、と。彼は1908年に発表された”装飾と罪”の中で建築表現に現れる装飾を徹底的にやっつけた。そしてロースハウスを設計した際には、装飾に覆われていない白い漆喰の壁を美しいと表現し、平面で構成される建築を徹底的に肯定した。
装飾と罰からの一節。
"Seht, die zeit ist nahe, die erfuellung wartet unser. Bald werden die strassen der staedte wie weisse mauern glaenzen. Wie zion, die heilige stadt, die hauptstadt des himmels. Dann ist die erfellung da. "
時は来た。白い装飾のない壁の建つ街路は輝きを放つだろう、それはさながら神々の都、ジオンのようだ。装飾をそぎ落とし、創造するその時がきたんだ。
そして、この建物である。周辺に仰々しい飾りをつけた建築群を従えての堂々たるファサード。
しかしその実現も決して平坦なものではなかったらしい。幾たびものメディアの攻撃にさらされたらしいし、施主もそんなにノリノリというわけではなかったらしく、装飾のあるファサードをおのずからスケッチしたりしている。

基壇部分はメノウ。装飾がない代わりに高価な材料を使う。

エントランス部分とエントランス天井見上げ。
正直、この建物にたどり着く前までは、ウィーン旧市街内部の建物装飾に圧倒され、うーん、やっぱ装飾って、必要なもんだよね、とか考えていた矢先だった。そんな考えになり始めたとたんにこの建物を見て、あ、やばい、と正直、感じた。何故なら、そこに近代までの支配的な建築の考え方、つまりファサードを飾り付ける思考回路に反論を突きつけた建物がどーんとたっていたからだ。それほどまでにこの建物は、近代建築の芽生えを感じさせる。そして、周辺に建つ伝統的建築群との対比を通しても、この建物を通してロースが指し示した近代建築から現代建築への道標も、呆れるくらいにはっきりと読み取ることが出来る。
僕は、前回のザハの集合住宅のブログに、なぜ、そこまでするのか、する必要があるのか、と自分に問いかけた。その回答の一つが、ロースの中に、この建築の中に、ある、と僕は思っている。つまりは、こうだ。
人間というのは、あくなき追求をする生物なのだ。家を建てるときにも、住めればいい、それだけでいい、と考えるに留まらず、余剰、余力がある限り、それを建物につぎ込む。それが過剰になってくると、装飾として具現化し、それが形式化して一つの建築様式を生み出す。近代以前は、バロック、ロココと進んできた建築様式が、ヒストリズムへと移行した。そして、市民階級の台頭とともに、アートアンドクラフト運動を起爆としてユーゲントシュティルが花開く。それを否定して、平面の美しさを宣言したのがロースだった。その後の建築の発展は、コルビジュエやロシア構成主義の成果を見れば一目瞭然だろう。コルビジュエは幾何学を礼賛し多くの建築をデザインしたが、その中には揺らぎ、つまりそれは彼の美学なのだけれども、を読み取ることが出来る。つまり、幾何学のみでは捕らえられない、住むという行為、そしてその集積である都市が立ち現れる。また、ロシア構成主義、デ・シュティル等は、構成の美学を追及し、幾何学の生み出す風景、ランドスケープを作り出す可能性を示した。そして、そのランドスケープは一つの建物を単位とするのではなく、一つの建物をより細分化し、その中にランドスケープを生み出そうとする。そのランドスケープが、かつての装飾に取って代わったといえるのではないだろうか。
つまり、ロースは装飾を否定し、平面そのものに美学を見出し、平面を作り出す素材そのものにこだわったが、現代建築はその平面を細分化し、平面の相互関係によって建築を作り出す。それってデコンストラクション、そのものじゃないか。ヨーロッパ、ってまだその延長線上に生きていないか???いや、それでいい。というよりも、今はそういったことがしてみたい。平面の相互関係について、追求してみたい。デコンやりたい、って意味じゃなく、相互関係を利用して面白いこと、できないかなぁ。

ロースは、決してヒストリズムを否定したわけではない。彼の建築は非常にモニュメンタリスティックで古典的に見える。

ロースの都市建築。入り口建築。シンメトリー。黒い石。曲面ガラス。そう、ガラスが結晶のように扱われている。ロースハウスの内部の陳列棚は、本当にクリスタルのよう。残念ながら内部撮影は禁止だった。

ロース設計の住宅群。誰が、近代建築の巨匠が設計したものだと、外観から判断できよう?

この階段ハウスも内部からみることはできない。

こんなの、普通の住宅じゃん、外から見たら。相当改装されているらしい。

こちらも、改装物件。外観だけじゃ本当になんともいえない。歩き回って疲労困憊。

最後に、クレンプナー通りにあるアメリカンバー。内部撮影禁止。内部は天井にメノウのはめ込まれた格子天井、壁上部は鏡張りで無限空間。これも、ロースお気に入りの表現らしく、ロースハウスでも計画されていた。
今回紹介するのは、ウィーン訪問の中でももっとも感銘を受けた建物の内の一つ、アドルフ・ロースの通称ロースハウス、現在はライフアイゼンバンクという銀行が入っている建物、そしてその他ロース建築諸々。
Looshaus
Bauzeit: 1909
Ort: Stadtbezirk 1, Altstadt

ロースハウスはハプスブルク宮殿のミヒャエルトラクト、そしてミヒャエラー教会が隣接する円形のミヒャエラー広場に面している。
最初にこの広場を訪れると本当に感心してしまう。ああ、ロース、本当にやってしまったんだなぁ、と。彼は1908年に発表された”装飾と罪”の中で建築表現に現れる装飾を徹底的にやっつけた。そしてロースハウスを設計した際には、装飾に覆われていない白い漆喰の壁を美しいと表現し、平面で構成される建築を徹底的に肯定した。
装飾と罰からの一節。
"Seht, die zeit ist nahe, die erfuellung wartet unser. Bald werden die strassen der staedte wie weisse mauern glaenzen. Wie zion, die heilige stadt, die hauptstadt des himmels. Dann ist die erfellung da. "
時は来た。白い装飾のない壁の建つ街路は輝きを放つだろう、それはさながら神々の都、ジオンのようだ。装飾をそぎ落とし、創造するその時がきたんだ。
そして、この建物である。周辺に仰々しい飾りをつけた建築群を従えての堂々たるファサード。
しかしその実現も決して平坦なものではなかったらしい。幾たびものメディアの攻撃にさらされたらしいし、施主もそんなにノリノリというわけではなかったらしく、装飾のあるファサードをおのずからスケッチしたりしている。


基壇部分はメノウ。装飾がない代わりに高価な材料を使う。


エントランス部分とエントランス天井見上げ。
正直、この建物にたどり着く前までは、ウィーン旧市街内部の建物装飾に圧倒され、うーん、やっぱ装飾って、必要なもんだよね、とか考えていた矢先だった。そんな考えになり始めたとたんにこの建物を見て、あ、やばい、と正直、感じた。何故なら、そこに近代までの支配的な建築の考え方、つまりファサードを飾り付ける思考回路に反論を突きつけた建物がどーんとたっていたからだ。それほどまでにこの建物は、近代建築の芽生えを感じさせる。そして、周辺に建つ伝統的建築群との対比を通しても、この建物を通してロースが指し示した近代建築から現代建築への道標も、呆れるくらいにはっきりと読み取ることが出来る。
僕は、前回のザハの集合住宅のブログに、なぜ、そこまでするのか、する必要があるのか、と自分に問いかけた。その回答の一つが、ロースの中に、この建築の中に、ある、と僕は思っている。つまりは、こうだ。
人間というのは、あくなき追求をする生物なのだ。家を建てるときにも、住めればいい、それだけでいい、と考えるに留まらず、余剰、余力がある限り、それを建物につぎ込む。それが過剰になってくると、装飾として具現化し、それが形式化して一つの建築様式を生み出す。近代以前は、バロック、ロココと進んできた建築様式が、ヒストリズムへと移行した。そして、市民階級の台頭とともに、アートアンドクラフト運動を起爆としてユーゲントシュティルが花開く。それを否定して、平面の美しさを宣言したのがロースだった。その後の建築の発展は、コルビジュエやロシア構成主義の成果を見れば一目瞭然だろう。コルビジュエは幾何学を礼賛し多くの建築をデザインしたが、その中には揺らぎ、つまりそれは彼の美学なのだけれども、を読み取ることが出来る。つまり、幾何学のみでは捕らえられない、住むという行為、そしてその集積である都市が立ち現れる。また、ロシア構成主義、デ・シュティル等は、構成の美学を追及し、幾何学の生み出す風景、ランドスケープを作り出す可能性を示した。そして、そのランドスケープは一つの建物を単位とするのではなく、一つの建物をより細分化し、その中にランドスケープを生み出そうとする。そのランドスケープが、かつての装飾に取って代わったといえるのではないだろうか。
つまり、ロースは装飾を否定し、平面そのものに美学を見出し、平面を作り出す素材そのものにこだわったが、現代建築はその平面を細分化し、平面の相互関係によって建築を作り出す。それってデコンストラクション、そのものじゃないか。ヨーロッパ、ってまだその延長線上に生きていないか???いや、それでいい。というよりも、今はそういったことがしてみたい。平面の相互関係について、追求してみたい。デコンやりたい、って意味じゃなく、相互関係を利用して面白いこと、できないかなぁ。

ロースは、決してヒストリズムを否定したわけではない。彼の建築は非常にモニュメンタリスティックで古典的に見える。

ロースの都市建築。入り口建築。シンメトリー。黒い石。曲面ガラス。そう、ガラスが結晶のように扱われている。ロースハウスの内部の陳列棚は、本当にクリスタルのよう。残念ながら内部撮影は禁止だった。

ロース設計の住宅群。誰が、近代建築の巨匠が設計したものだと、外観から判断できよう?

この階段ハウスも内部からみることはできない。

こんなの、普通の住宅じゃん、外から見たら。相当改装されているらしい。

こちらも、改装物件。外観だけじゃ本当になんともいえない。歩き回って疲労困憊。

最後に、クレンプナー通りにあるアメリカンバー。内部撮影禁止。内部は天井にメノウのはめ込まれた格子天井、壁上部は鏡張りで無限空間。これも、ロースお気に入りの表現らしく、ロースハウスでも計画されていた。
現代建築の威力
今回は、ウィーン現代建築の中でもとくに造形的に意欲的な2作品を、僕の見てきた中から取り上げたいと思う。
SEG集合住宅 ザハ・ハディド
前回取り上げたコープヒメルブラウのSEG集合住宅、それと同じ住宅供給公社が提供しているザハ・ハディドの集合住宅。ウィーン北部、フンデルトバッサーのゴミ焼却所の近くに建つ。建物の片側は幹線道路、その反対側は川に挟まれ、オットー・ワーグナーの陸橋をまたいで計画されている。
この計画は随分長いこと議論されたようで、計画に十年ほどの歳月が流れているらしい。
造形的には、素晴らしい。ダイナミックな造形。幹線道路と川という流れに挟まれてダイナミックに乱舞するマッシブな躯体。高く持ち上げられたそれは、ワーグナーの陸橋に触れることなく、その歴史的意義を尊重し、リニアモーターカーのごとく陸橋を跨いでいる。
でもさぁ、ここまでする意義って、なんなの?集合住宅にここまで造形力を与える意義って本当になんなの?そのような疑問が重低音のように意識の底で蠢いている。
多分、作る側としては、造形に対する挑戦。現場では技術を駆使しての実現。そして住む側としては、素晴らしい建造物の中に住むという充足感、満たされる所有欲。
道路側からの全景。アーチのある陸橋がかつてのオットーワグナー設計の陸橋。もちろん現在は鉄道の陸橋としては使われておらず、歩道となっている。
先ほどとは別アングルで眺めると、奥にフンデルトヴァッサーのゴミ焼却施設が目に入る。
高く持ち上げられた建物。
さらに、川にはペデストリアンデッキがかけられ、川を眺めることが出来る。
陸橋からの眺め。建物は陸橋を跨いでいるが、陸橋上部と建物は全く分断されていて直接アクセスすることはできない。
ただ、陸橋上部の歩道を歩く際には建物はアーチとして何度も反復されるので、交互に現れる光と影のコントラストはダイナミックだ。
この建物、建築的には環境に配慮している。というのは、既存陸橋の保存、両側を挟み込まれた細長い敷地利用という点からなのだけど。
だけど、住民の住居を使用する、という観点からは、環境とのつながりがあるとは思えない。川への関係は、眺めるという行為に終始しているし、陸橋内部の機能と集合住宅の機能がリンクしているようには見えず、また陸橋上の歩道に直接アクセスすることもできない。つまり共同スペースが決定的に欠けている。もっと陸橋との関係を密にし、立体的な中庭的機能を持たせればおもしろいことになったのではないか、と思うのだけど、建物の彫刻的性格からそのようにもできなかったんだろう。もしくは記念的建造物保存の観点からか。もしそうだとしたら、はたから陸橋と建物を絡ませる計画なんてしなければいいのに。
中央シュパーカッセ銀行 ギュンター・ドメニク
この意欲的な作品については、造形的に分析する必要もあるまい。ただ存在することが驚異、素晴らしい。
建築は銀行の窓口店舗及びそのオフィスとして計画された。しかし、ここ十数年来、使用されていないらしい。理由は調べていないのでよくわからないが、テナント看板を見る限りでは上階は映像制作会社が入居しているように見える。
現在、取り壊すか、保存するかでもめているというニュースもどこかで読んだ。保存運動には日本の著名建築家も名を連ねている。磯崎新など、その他多数。安藤忠雄の名前を発見し、ちょっと笑った。
この場所を訪れたときは生憎の曇り空。その前数日間、そしてその日の午前中まで、それこそこれでもか、というくらいカンカン照りだった太陽が、僕がこの建物を訪問するために地下鉄にのり、地上への階段を上った段階ですっかり消えうせ、風がドウドウドドウと吹いている。おかげさまで、メタルのファサード頂部は曇り空と同調してしまい、輪郭があやふや。残念。
建物は、本当に郊外のごくふつーのショッピング通りの中にポツン、と建っている。違和感100%。想像では、密度の高い都市中心部にあると考えていたのだが、、、どう考えてもそのほうが似つかわしい。建築家は、どっかでこういう造形をしたかっただけなのだろう。
ザハのところでも述べたが、そこまでする意味ってなぁに、との考えがもたげてくるが、一企業の自社ビルとしては宣伝効果はあるのだろう。
一階内部。ここは明らかに使われていない。それにしても長いこと使われていないって、相当使いにくい建物なんだろうなぁ。
入り口部分。左側には小さなカフェが入っている。ビール飲みたかったんだけど、寒すぎてそれどころじゃなかった。結局、その後、泳ぐことに決めていたので、カフェには立ち寄らずにその場を去った。
コメントを書くと、どうしてもネガティブにんってしまうなぁ。でも、造形的に、彫刻的にはありえないくらいすごい。それだけは強調しておきたい。
現代建築の威力、そうタイトル付けした今回のブログだが、それには多分にアイロニーを込めたつもりでいる。造形的には本当に素晴らしい。それを実現した技術にも感服する。しかしその威力は、どのように位置づければいいのだろうか?使用する側からか?都市的コンテクストの中からか?それとも建築史の中でなのだろうか?
もし、建物それだけについて、建築史の中でのみ評価されるべきものだとしたら、建築の歴史というものが一人歩きして、周りのものに盲目になり暴走しているようにも見える。
誰か、そのことについての答えを聞かせて欲しい。
2011年9月24日土曜日
コープヒメルブラウ
Gasometerを紹介したので、ここで一気に見てきたコープヒメルブラウを紹介しようと思う。
まずはじめに郊外北部に建つ、高層集合住宅、オフィスビルのコンプレックス。
高層住宅、オフィスコンプレックス ×2
ツインタワー。左側のタワーは下部がオフィスになっていて上部が集合住宅。右側はよくわからないがどうやら集合住宅になっているようだ。
運よく左側のビルのオフィスで働いている人に内部を見せてもらえることになった。
こっちのビル。なので住宅はみることができなかったが、外から見るに住宅南側は前面ガラス。眺めはいいだろうが窓の下に壁がないとちょっと怖くないか?というか落ち着かなくない?日中はカーテンを引いていないといけないし、熱効率という意味でもどうなんだろう、いくらガラスの性能が上がったとはいえ、所詮壁には敵わんのだよ。。。
この日は週末だったこともありレセプションには誰もいない。案内してくれた人は、郵便物を取りに来ただけらしく、ざっと内部を案内してくれたあと、すぐに帰宅していた。
エキスパンションパネルの塔屋。エキスパンションパネルはしかし、こちら側の建物ではなくて隣に建つ他方の住宅ビルに多用されていて、そちらのほうにどちらかというとシンパシーを覚える。
もう一方の建物見上げ、こんな感じ。こうやって見ると、コープヒメルブラウって、窓とかの造形に凝るというよりも、ファサードを構成する面を操作することによってダイナミズムを生み出しているように見える。例えば、上部写真はビルを見上げているんだけど、右側に注目。エキスパンションメタルのパネルが上部まで延びているが、その面の中にはテラスや色々な大きさの窓等、異なるエレメントがあるんだけど、それをエキスパンションメタルで纏め上げている。
このような面によるファサードの構成は、次に紹介するSEG集合住宅でより顕著にみることができる。
SEG集合住宅
SEGという会社、これは住宅供給公社かなにか?、がプロデュースしている集合住宅。そのうちの一つをコープヒメルブラウが設計している。
この会社は、その他にもザハ・ハディドにも計画させていて、その写真は後ほどまた紹介したいと思う。
交差点からの眺め。窓は普通に四角いものが並ぶ。そしてなんといっても特徴的なのがファサードの平面分割、凹凸。一度飛び出したかと思えば引っ込み、それらの生み出す建物の輪郭には陰影が生まれる。そして高く持ち上げられたピロティー。コープヒメルブラウの建築言語をなんとなく理解。
中庭へと通じるピロティー。構造体と縦のスリット状開口の奥に、内部へ誘うような曲面。構造的に有効なのかよくわからない柱。ガゾメーターでもあったなぁ、こういう柱。
中庭。円錐、テラス、など、外側よりこっちの中庭空間のほうが豊穣だなぁ。一本渡り廊下が通っているけど、これは多分あんまり使われていない。
中庭一階部分。造形的。
トップライト群。かっこいい。
ところがどっこい、ここは中間階にある共同テラス。薄暗く、使われている痕跡もない。
こういう部分が結構ある。例えば上層階の共同通路。ある階は明るいが、ある階はまったく光が入ってこなく、昼でも真っ暗。たぶん造形的に追求したけっか、そういったコントロール不能な部分が発生してしまう。造形に重点を置くというのは本当に諸刃の剣だな、と痛感する。
たぶん、このビルを計画していたときにも、設計チームは意図的にこういった点について言及せずにプレゼンしていたんだろうなぁ。そして、こういった計画に批判的な人が指摘する部分もこういった点だろうなぁ。
上部写真は、向かいに建つ集合住宅。こういったランダムなファサードは、自分もそういうことをする傾向にありがちなのでシンパシーは覚えるが、ガチャガチャすぎるとも思う。差異性を生み出すという点では、それなりに効果はあるだろう。
造形の生み出すパワーに圧倒されたが、その影にあるネガティブな側面、つまりコントロールされていない側面も鼻につく。一方、造形のない建築物でも、人間とのコンタクトに重点を置けば、まったく異なる側面で建築としてのクオリティーは飛躍的に向上するだろう。そう考えると、そこまでして造形にこだわる理由というのはどこにあるのか、わからなくなってくる。コストもかかるだろうし。
個人的には造形力のある建築物のが好きだ。でも、コープヒメルブラウの建築には何かしら受け入れがたいものがある。今回見に行ったザハの建築もそうだった。造形のある建築で、それでいてヒューマンインターフェースにも配慮している建築家としてポルザンパルクが思い出される。最近彼の動向を聞かないが、もう一度、彼の建築を読み込んでみよう。
登録:
投稿 (Atom)