今年のクリスマスは暖かすぎて、雰囲気を楽しむこともできずに迎えてしまった。
ミュンヘンは春が来たような陽気だ。
ところで、最近伊勢神宮の本を読んでいるときに面白いことが書いてあった。
尾張、現在の愛知県には、昔、尾張連が勢力を張っていたそうだ。この氏族の始祖が、ホアカリノミコトであり、その神が、アマテラスになっていったのではないか、とその本の著者は推論している。ところでこの尾張氏、かつては天の香具山の近くに住んでいたそうだ。もっと言うならば、推古天皇の宮殿であった小墾田宮(おはりだのみや)との関連が推測されるという。おはりだが尾張(おわり)の語源ではないか、というのだ。飛鳥の時代には多くの宮が建造され、後の日本建築に多大なる影響を与えた。その一つの小墾田宮から尾張の名が由来するというのは、とっても面白いことだと思う。
子供時代から多くの神社を見るにつけ、その起源はどこにあるのだろうとぼんやりと思うことが多かった。調べてみると、仏教伝来以前から、濃密な八百万の神への信仰というのは存在していることがわかる。しかし、私たちが学校でならうのは、主に仏教伝来以降、平城や平安など、仏教文化である。それらはもちろん日本風にアレンジされた私たちの文化だけれど、やっぱり自分たちのルーツは八百万の神にあると思う。(物部氏は蘇我氏に負けるべきではなかった、とぼんやりと思う。)この神々はいたるところにまつられているけれど、少なくとも自分はこれらの来歴について知る機会はあまりなかった。それらの歴史が文献として残っていないことが、私たちがそれらについて慣れ親しむことの出来ない大きな理由のうちの一つだと思うが、それらのついてもっと多くのことを知りたいと思うこの頃である。
旅について特集したHPを作成中です。 ミュンヘン周辺を中心に、訪問した国、街の基本情報から名所などについて書いています。是非、旅の参考にしてください! 下のリンク 旅色眼鏡からどうぞ! ↓
2013年12月24日火曜日
2013年11月18日月曜日
2013年11月1日金曜日
ミュンヘン ヒットラーの住居
ミュンヘンにおける、ヒットラーの住居跡を二ヶ所、見てきた。
Thierschstraße 41
ヒットラーは、ここに、1920年から1929年まで住んだ。1936年からは誇らしげに、この場所にヒットラーが住んでいたということを示す掲示板が掛かっていたが、戦後に取り外された。
解説書には、この建物の階段室のきしみ、そしてドアベルの音も戦前戦後と変わっていない、ということなので、爆撃からは免れたのではないだろうか。
現在は、ヒットラーを想起させるようなものは一切なく、彼の居住した部屋は物置として使われているそうだ。
Prinzregentenplatz 16
1929年から、ベルリンにて自害するまでの間、ヒットラーの住居であった。内装は、パウル・ルートビッヒ・トルースト。
現在は、警察署となっており、一般には公開されていない。彼の図書館の本棚は、警察官サッカーチームのトロフィー置き場として使われているらしい。
アクセス:旧市街からイザール川を隔てた対岸、天使の柱をさらに市外へ走ると、プリンツレーゲンテン広場がある。この広場に面して建物は建つ。地下鉄U4、Prinyregentenplatz駅から地上に出ると目の前にある。
新たな南市街
ナチスの政策として、この一帯には、1万4千500戸の新たな居住地が計画された。そのモデル棟として、現存するこの住棟のみ建造された。この住棟の外観などは、ほぼ建造当時のままらしい。両端に防空棟が建ち、住居棟を挟み込んでいる。東側の防空棟はどうもナーゲルフリューという、アルプス周辺で採取される石を使っているようだ。
アクセス:Prinzregentenstrasse沿い、上記、プリンツレーゲンテン広場に面するヒットラーの住居を市外方向へ歩くと道路沿いに建つ。
これらの、ヒットラー、及びナチス関連の施設は特に目印もなく、自ずから探さなければそれと気づかない。これらを観光の目玉として使用しないのはなぜなんだろうと何人かに聞いたが、ネオナチなどに利用されることを恐れてのことらしい。特にプリンツレーゲンテン広場の住居に関しては、警察が入っていることから、まだ、そういった極右勢力に利用されることを牽制しているような印象を与えた。ここ、ミュンヘンでは、ヒットラーの所業は、完全なる過去ではない。
Thierschstraße 41
ヒットラーは、ここに、1920年から1929年まで住んだ。1936年からは誇らしげに、この場所にヒットラーが住んでいたということを示す掲示板が掛かっていたが、戦後に取り外された。
解説書には、この建物の階段室のきしみ、そしてドアベルの音も戦前戦後と変わっていない、ということなので、爆撃からは免れたのではないだろうか。
現在は、ヒットラーを想起させるようなものは一切なく、彼の居住した部屋は物置として使われているそうだ。
アクセス:旧市街近くの、レールLehelという地区に建つ。Isartorplatzから徒歩約5分程度。
Prinzregentenplatz 16
1929年から、ベルリンにて自害するまでの間、ヒットラーの住居であった。内装は、パウル・ルートビッヒ・トルースト。
現在は、警察署となっており、一般には公開されていない。彼の図書館の本棚は、警察官サッカーチームのトロフィー置き場として使われているらしい。

現在の様子
1938年に様子。
Münchner Wochenend Zeitung、2010.07.21の記事から引用
アクセス:旧市街からイザール川を隔てた対岸、天使の柱をさらに市外へ走ると、プリンツレーゲンテン広場がある。この広場に面して建物は建つ。地下鉄U4、Prinyregentenplatz駅から地上に出ると目の前にある。
新たな南市街
ナチスの政策として、この一帯には、1万4千500戸の新たな居住地が計画された。そのモデル棟として、現存するこの住棟のみ建造された。この住棟の外観などは、ほぼ建造当時のままらしい。両端に防空棟が建ち、住居棟を挟み込んでいる。東側の防空棟はどうもナーゲルフリューという、アルプス周辺で採取される石を使っているようだ。
アクセス:Prinzregentenstrasse沿い、上記、プリンツレーゲンテン広場に面するヒットラーの住居を市外方向へ歩くと道路沿いに建つ。
これらの、ヒットラー、及びナチス関連の施設は特に目印もなく、自ずから探さなければそれと気づかない。これらを観光の目玉として使用しないのはなぜなんだろうと何人かに聞いたが、ネオナチなどに利用されることを恐れてのことらしい。特にプリンツレーゲンテン広場の住居に関しては、警察が入っていることから、まだ、そういった極右勢力に利用されることを牽制しているような印象を与えた。ここ、ミュンヘンでは、ヒットラーの所業は、完全なる過去ではない。
2013年10月24日木曜日
ランズベルク
週末、ミュンヘン日本人会の日帰りツアーに参加し、ロマンティック街道にあるランズベルクという街を訪ねてきた。今まで、街歩きというものを解さなかった息子も、今回はなんとか最後まで頑張って歩き抜いた。参加したみなさんにもかわいがっていただき、感謝しきりである。
このランズベルク・アム・レッヒという小さな街は、名前の示すとおり、レッヒ川沿いにある街だ。今回、初めて知ったのだが、川の名前の男性、女性、中性(ってものがあるのかどうなのかわからないが)というのは(ドイツ語の名詞は、これら3つの性のどれかに属しているが、固有名詞は通常、そうではない)、川の神様の性別によるのだそうだ。だから、ミュンヘンを流れるイザール川は女性、そしてこのレッヒ川は男性。
そして、ミュンヘンの街の最初の公文書による歴史も、いわずと知れたハインリッヒ獅子公による橋の架け替えによる司教との紛争によって幕を開けるが、このランズベルクも、ハインリッヒ獅子公によってレッヒ川に橋がかけられ、塩を運送する際に通行税がここで徴収されたが、その施設から街が発展した。
従って、長い躯体を持つ塩を貯蔵する倉庫が川沿いに並び、嘗ては人の住まないバラックのごとくになっていたが、現在では改修されて住宅などになっている。その当初の性格から生じる単純なシルエットと、冗長にも感じる建物のファサードは同じリズムで玄関や窓などの開口部分が繰り返されるため一種、リズミカルであり、パースペクティブの強烈に効いた建物前の街路空間には、自分は常に圧倒されてしまう。イギリスはバースのロイヤル・クレッセントや、ロンドンのピカデリー広場に至る、ジョン・ナッシュ設計のアーク、ミュンヘンでいえば、テオドア・フィッシャーのポリツァイ・プレジディウムなど、こういった強烈なアークとパースペクティブの組み合わせを意識した計画というのは、一種定番の都市空間設計手法といえるが、アーク抜きでも、唐突にこういった長いファサードを都市空間の中に組み込むというのは、なかなか面白い手法であると思う。
ランズベルク・アム・レッヒ
ミュンヘンも、日本の都市と比較した場合、都市の中に歴史の痕跡を発見する機会が多いが、このランズブルクという街は、その比ではない。かつての都市壁もかなりの部分が現存しているし、(再建されたものかどうかはわからないが)、旧市街のレッヒ川側を流れる運河、ミュールバッハは「粉引きの小川」という意味だが、ここに沿ってかつてのパン屋や染色業者の小屋や塩の倉庫が林立しており、中世の面影を存分に残している。こじんまりとしているが、中世都市の雰囲気をゆっくりと味わいたい人にはうってつけの小都市ではないだろうか。
また、訪問した当日は、とても綺麗な街だけれど、歴史的な事件がないということでインパクトにかけるのではないか、と思ったが、どっこい、どうして、後々資料をあたってみると30年戦争におけるスウェーデン軍との戦場になったり、ヴィース教会を造ったドミニクス・チマーマンという有名人を輩出している。
ランズベルクへは、ミュンヘン中央駅から電車(レギョナルバーン)で片道50分程度。交通費、往復約25ユーロ
ヴィースの巡礼教会
ドミニクス・チマーマン
当日は、この街に在住している日本人の方に案内していただいた。以降、印象に残った場所について記していく。
ランズベルクの門と塔
ランズベルクには、都市門とくみあわされて幾つかの塔が現存している。北側にはザンダウエァ門、西側に二重の塔であるベッカー門とフェルバー門。東側には、ミュンヘンへへ至る、かつての主要門、バイヤー門。その門からの急な坂道を下り、中央広場へと至る場所に存在するシュマルツ門。
ザンダウエァ門は旧市街北に位置する。すぐ隣にはかつての染色場として使われていた建物が隣接している。門と組み合わされた塔はかつて火薬庫として使われていた。息子はそれを聞き、爆発しちゃうんじゃないの?と不安げだったが、ミュンヘンのカールスプラッツでは、かつて、実際に貯蔵してあった火薬に引火し、爆発、その後、セネッティーという建築家によって現在のカールス門がデザインされた、という経緯がある。
ベッカー門とフェルバー門は、西側に、重なるようにたっているが、これは、都市が川側に拡張した際に、フェルバー門が新築され、その際に、ミュール運河に面するベッカー門は破壊されないで残ったということらしい。名前の示すとおり、ベッカー門は、パン屋の門。かつて、ここにパン屋があったのだろう。フェルバー門は、染色屋の門。ともに、運河の水を必要とする職業である。ベッカー門は、内側からみる造形と外側から見る造形が全く異なり、敵は進入する時の印象と退出するときの印象があまりに違うので混乱したらしい。
バイヤー門は、かつての表玄関でもあり、バイエルンでも一番美しい門といわれているらしい。あくまでもらしい、ということで、自分的にはあまり感心しなかった。ここは登ることができる。息子君は塔に登るのが大好きで、ここでも率先してテッペンまで駆け上ってしまう。そして下まで降りてきたと思ったら、「もう一度、登りたい!」。小さな体で、人一倍元気。結局時間がなくて登れなかったが、この日は天候にも恵まれ、アルプスまで見える、すばらしい眺望だった。
この塔は、ミラノの貴族、ビスコンティー家から嫁に来た女王をたたえるものとして造られたらしく、塔の中央には、人が蛇に飲み込まれているようでいて、実は吐き出しているワッペンが飾られている。どうやら、映画監督のルキノ・ビスコンティーは直系ではないものの、この家の子孫らしいね。
バイヤー門
見学期間:5月~10月
見学時間:10-12時、14-17時
大人 1ユーロ
子供 50セント
バイヤー門から沿道にたつかわいらしい住宅、商店建物を観ながら、急な坂道を下ると、中央広場に通じるシュマルツ門がある。門の広場側には、ナポレオン戦争のとき、フランス軍が打ち込んだという砲弾が飾ってある。
ドミニクス・チマーマン
アウグルブルクがエリアス・ホール、ヴュルツブルグがヴァルタザール・ノイマン、というように、ドイツの小都市では、必ずといっていいほど、都市の重要建築物を設計して、地元に根を下ろした建築家がいる。ここ、ランズベルクでは、まちがいなくこの人、ドミニク・チマーマン(1685-1766)がそうだ。彼は、叔父から漆喰職人として教えを受け、後に兄弟であるヨハン・チマーマンとともに南ドイツのロココ建築を代表する建築家となり、バイエルンへ来た日本人なら、必ずといっていいほど、ノイシュバンシュタイン城とセットになって観光に訪れるヴィース教会を造っている。ここランズベルクでは、ヨハニス教会と、旧市庁舎が代表作だろう。
今回、自分たちが訪問したのは、ヨハニス教会。前面の街路が狭いため、屋根の造形をはっきりと見ることはできないが、方形の外観をしている。が、内観は、楕円に近い平面となり、うねった壁面だ。これは、ミュンヘンのアザム教会を連想させる。正面の祭壇や、天井では、モチーフは三位一体、そして洗礼者ヨハネ。天頂にある三角形と目の組み合わせがちょっと気味悪い。
聖十字教会(Heilig-Kreuz-Kirche)
旧市街を下に臨む丘の上に建つこの教会は、イエズス会に属し、その前身となる教会はすでに1584年にこの場所に建っていた。ランズベルグの紋章は山の上に十字架がたっているモチーフなので、自分はこの教会をモデルにしたのだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。
この教会で面白いのは、ローマのコンスタンティヌス帝が天井がのモチーフとなっていることだ。最初にキリスト教を国教とした皇帝だから、ここでもその事跡がたたえられているそうだ。主祭壇の上部にはパースの効いた十字架が描かれているが、この十字架が観察者の移動に追従して、左右にパースが振れて見えるから不思議だ。これは、十字架の下部分が手前に見えるように書いてあるから不思議に見えるのであって、実は、十字架の下部分は奥に向かって描かれており、そのため、観察者が左右に移動すると、それに従ってパースも変化し、結局は、手前に突き出しているように見える十字架の下部分が観察者の方向に傾いているように見えるのだろう。
写真参照 中央上部の輝いている十字架に注目。
ヒットラーが「わが闘争」を執筆した牢獄
現在も刑務所として使用されているこの建物。残念ながら内部は見学することはできず、且つ、改装されており、ヒットラーが収監されていた部屋も、当時の名残を留めていない、とのこと。まぁ、これについては、もし観光の名所とするには復元すればいいのかな、と思うが、現在も刑務所として使用されているとのことなので、実際、公開するのは難しいのだろう。尚、同行していた方から聞いた話だが、近々、「我が闘争」がドイツでも刊行される見通しとのこと。その暁には是非、当時、ドイツ人を狂わせた稀代の詭弁を原文で読んでみたいものだ。
息子には、ヒットラーのことを説明するのはまだ時期早尚という判断から、本当の世界のダース・シディオスと説明しておいた。
この建物は1908年、Hugo von Höflによって設計された。
当時の様子などについては、このSpiegelの記事に詳しい。
アクセス:Hindenburgring 12、Landsberg Schule駅を下車し、駅上部に掛かる陸橋を超えてすぐ。
このランズベルク・アム・レッヒという小さな街は、名前の示すとおり、レッヒ川沿いにある街だ。今回、初めて知ったのだが、川の名前の男性、女性、中性(ってものがあるのかどうなのかわからないが)というのは(ドイツ語の名詞は、これら3つの性のどれかに属しているが、固有名詞は通常、そうではない)、川の神様の性別によるのだそうだ。だから、ミュンヘンを流れるイザール川は女性、そしてこのレッヒ川は男性。
そして、ミュンヘンの街の最初の公文書による歴史も、いわずと知れたハインリッヒ獅子公による橋の架け替えによる司教との紛争によって幕を開けるが、このランズベルクも、ハインリッヒ獅子公によってレッヒ川に橋がかけられ、塩を運送する際に通行税がここで徴収されたが、その施設から街が発展した。
従って、長い躯体を持つ塩を貯蔵する倉庫が川沿いに並び、嘗ては人の住まないバラックのごとくになっていたが、現在では改修されて住宅などになっている。その当初の性格から生じる単純なシルエットと、冗長にも感じる建物のファサードは同じリズムで玄関や窓などの開口部分が繰り返されるため一種、リズミカルであり、パースペクティブの強烈に効いた建物前の街路空間には、自分は常に圧倒されてしまう。イギリスはバースのロイヤル・クレッセントや、ロンドンのピカデリー広場に至る、ジョン・ナッシュ設計のアーク、ミュンヘンでいえば、テオドア・フィッシャーのポリツァイ・プレジディウムなど、こういった強烈なアークとパースペクティブの組み合わせを意識した計画というのは、一種定番の都市空間設計手法といえるが、アーク抜きでも、唐突にこういった長いファサードを都市空間の中に組み込むというのは、なかなか面白い手法であると思う。
ランズベルク・アム・レッヒ
ミュンヘンも、日本の都市と比較した場合、都市の中に歴史の痕跡を発見する機会が多いが、このランズブルクという街は、その比ではない。かつての都市壁もかなりの部分が現存しているし、(再建されたものかどうかはわからないが)、旧市街のレッヒ川側を流れる運河、ミュールバッハは「粉引きの小川」という意味だが、ここに沿ってかつてのパン屋や染色業者の小屋や塩の倉庫が林立しており、中世の面影を存分に残している。こじんまりとしているが、中世都市の雰囲気をゆっくりと味わいたい人にはうってつけの小都市ではないだろうか。
また、訪問した当日は、とても綺麗な街だけれど、歴史的な事件がないということでインパクトにかけるのではないか、と思ったが、どっこい、どうして、後々資料をあたってみると30年戦争におけるスウェーデン軍との戦場になったり、ヴィース教会を造ったドミニクス・チマーマンという有名人を輩出している。
ランズベルクへは、ミュンヘン中央駅から電車(レギョナルバーン)で片道50分程度。交通費、往復約25ユーロ
ヴィースの巡礼教会
ドミニクス・チマーマン
当日は、この街に在住している日本人の方に案内していただいた。以降、印象に残った場所について記していく。
ランズベルクの門と塔
ランズベルクには、都市門とくみあわされて幾つかの塔が現存している。北側にはザンダウエァ門、西側に二重の塔であるベッカー門とフェルバー門。東側には、ミュンヘンへへ至る、かつての主要門、バイヤー門。その門からの急な坂道を下り、中央広場へと至る場所に存在するシュマルツ門。
ザンダウエァ門は旧市街北に位置する。すぐ隣にはかつての染色場として使われていた建物が隣接している。門と組み合わされた塔はかつて火薬庫として使われていた。息子はそれを聞き、爆発しちゃうんじゃないの?と不安げだったが、ミュンヘンのカールスプラッツでは、かつて、実際に貯蔵してあった火薬に引火し、爆発、その後、セネッティーという建築家によって現在のカールス門がデザインされた、という経緯がある。
ベッカー門とフェルバー門は、西側に、重なるようにたっているが、これは、都市が川側に拡張した際に、フェルバー門が新築され、その際に、ミュール運河に面するベッカー門は破壊されないで残ったということらしい。名前の示すとおり、ベッカー門は、パン屋の門。かつて、ここにパン屋があったのだろう。フェルバー門は、染色屋の門。ともに、運河の水を必要とする職業である。ベッカー門は、内側からみる造形と外側から見る造形が全く異なり、敵は進入する時の印象と退出するときの印象があまりに違うので混乱したらしい。
旧市街側から
その反対側、かつての旧市街外側
バイヤー門は、かつての表玄関でもあり、バイエルンでも一番美しい門といわれているらしい。あくまでもらしい、ということで、自分的にはあまり感心しなかった。ここは登ることができる。息子君は塔に登るのが大好きで、ここでも率先してテッペンまで駆け上ってしまう。そして下まで降りてきたと思ったら、「もう一度、登りたい!」。小さな体で、人一倍元気。結局時間がなくて登れなかったが、この日は天候にも恵まれ、アルプスまで見える、すばらしい眺望だった。
この塔は、ミラノの貴族、ビスコンティー家から嫁に来た女王をたたえるものとして造られたらしく、塔の中央には、人が蛇に飲み込まれているようでいて、実は吐き出しているワッペンが飾られている。どうやら、映画監督のルキノ・ビスコンティーは直系ではないものの、この家の子孫らしいね。
旧市街側からの眺め。
外側から。おもちゃの塔みたい。
塔の上から、旧市街を見下ろす。
バイヤー門
見学期間:5月~10月
見学時間:10-12時、14-17時
大人 1ユーロ
子供 50セント
バイヤー門から沿道にたつかわいらしい住宅、商店建物を観ながら、急な坂道を下ると、中央広場に通じるシュマルツ門がある。門の広場側には、ナポレオン戦争のとき、フランス軍が打ち込んだという砲弾が飾ってある。
ドミニクス・チマーマン
アウグルブルクがエリアス・ホール、ヴュルツブルグがヴァルタザール・ノイマン、というように、ドイツの小都市では、必ずといっていいほど、都市の重要建築物を設計して、地元に根を下ろした建築家がいる。ここ、ランズベルクでは、まちがいなくこの人、ドミニク・チマーマン(1685-1766)がそうだ。彼は、叔父から漆喰職人として教えを受け、後に兄弟であるヨハン・チマーマンとともに南ドイツのロココ建築を代表する建築家となり、バイエルンへ来た日本人なら、必ずといっていいほど、ノイシュバンシュタイン城とセットになって観光に訪れるヴィース教会を造っている。ここランズベルクでは、ヨハニス教会と、旧市庁舎が代表作だろう。
今回、自分たちが訪問したのは、ヨハニス教会。前面の街路が狭いため、屋根の造形をはっきりと見ることはできないが、方形の外観をしている。が、内観は、楕円に近い平面となり、うねった壁面だ。これは、ミュンヘンのアザム教会を連想させる。正面の祭壇や、天井では、モチーフは三位一体、そして洗礼者ヨハネ。天頂にある三角形と目の組み合わせがちょっと気味悪い。
不気味でしょ。三位一体と、サロメによるヨハネの処刑
聖十字教会(Heilig-Kreuz-Kirche)
旧市街を下に臨む丘の上に建つこの教会は、イエズス会に属し、その前身となる教会はすでに1584年にこの場所に建っていた。ランズベルグの紋章は山の上に十字架がたっているモチーフなので、自分はこの教会をモデルにしたのだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。
この教会で面白いのは、ローマのコンスタンティヌス帝が天井がのモチーフとなっていることだ。最初にキリスト教を国教とした皇帝だから、ここでもその事跡がたたえられているそうだ。主祭壇の上部にはパースの効いた十字架が描かれているが、この十字架が観察者の移動に追従して、左右にパースが振れて見えるから不思議だ。これは、十字架の下部分が手前に見えるように書いてあるから不思議に見えるのであって、実は、十字架の下部分は奥に向かって描かれており、そのため、観察者が左右に移動すると、それに従ってパースも変化し、結局は、手前に突き出しているように見える十字架の下部分が観察者の方向に傾いているように見えるのだろう。
写真参照 中央上部の輝いている十字架に注目。
ヒットラーが「わが闘争」を執筆した牢獄
現在も刑務所として使用されているこの建物。残念ながら内部は見学することはできず、且つ、改装されており、ヒットラーが収監されていた部屋も、当時の名残を留めていない、とのこと。まぁ、これについては、もし観光の名所とするには復元すればいいのかな、と思うが、現在も刑務所として使用されているとのことなので、実際、公開するのは難しいのだろう。尚、同行していた方から聞いた話だが、近々、「我が闘争」がドイツでも刊行される見通しとのこと。その暁には是非、当時、ドイツ人を狂わせた稀代の詭弁を原文で読んでみたいものだ。
息子には、ヒットラーのことを説明するのはまだ時期早尚という判断から、本当の世界のダース・シディオスと説明しておいた。
この建物は1908年、Hugo von Höflによって設計された。
当時の様子などについては、このSpiegelの記事に詳しい。
アクセス:Hindenburgring 12、Landsberg Schule駅を下車し、駅上部に掛かる陸橋を超えてすぐ。
2013年9月22日日曜日
長男、小学校入学
長男が、小学校に入学しました。
ついこの前、生まれたと思っていたのに、もう小学生とは!時間の流れは速いですね。
さて、ところでドイツの小学校は9月から始まるので、残念ながら日本のような華やかさはありません。しかも式もいたって簡素でした。
一番の特徴といえば、入学式の日に学校へ抱えていく、シュールトゥーテなる代物。巨大なとんがりコーンを派手にしたようなものといえばイメージしていただけるでしょう。
このコーンは自作してもよし、デパートなどで購入してもよし。息子の場合は、幼稚園で親が自作する、という企画があり、息子は忍者をモチーフとしてリクエストしたのですが。妻は手先が器用なので周りと比較すると飛びぬけて、クオリティーが高い!
この中に何を入れるか、親たちは頭を悩ませるわけです。自分は一日かけて中に入れるものを探し求めました。
最終的に中にいれたものは、
ポテトチップス(息子とは味覚が似ており、自分の好物は、すなわち息子の好物でもあります。カキピーしかり、ポテトチップスしかり)
コアラのマーチ、ドイツ版
隣人からもらったオレンジ
隣人から誕生日にもらった木を削るナイフを腰に吊るすことができる、サバイバル用のベルト
携帯用水筒
小型ゲーム、IQ
サバイバル用のベルトは良く出来ていて、今回購入したスイス製水筒も携帯できるようになっています。この水筒も良く出来ていて、表面に印刷されている恐竜とキャップ部分が暗闇で光ります。
また、小型ゲームのIQは、結構面白く、特にピラミッド状に組み上げることができたときの達成感がすごい。
ついこの前、生まれたと思っていたのに、もう小学生とは!時間の流れは速いですね。
さて、ところでドイツの小学校は9月から始まるので、残念ながら日本のような華やかさはありません。しかも式もいたって簡素でした。
一番の特徴といえば、入学式の日に学校へ抱えていく、シュールトゥーテなる代物。巨大なとんがりコーンを派手にしたようなものといえばイメージしていただけるでしょう。
このコーンは自作してもよし、デパートなどで購入してもよし。息子の場合は、幼稚園で親が自作する、という企画があり、息子は忍者をモチーフとしてリクエストしたのですが。妻は手先が器用なので周りと比較すると飛びぬけて、クオリティーが高い!
この中に何を入れるか、親たちは頭を悩ませるわけです。自分は一日かけて中に入れるものを探し求めました。
最終的に中にいれたものは、
ポテトチップス(息子とは味覚が似ており、自分の好物は、すなわち息子の好物でもあります。カキピーしかり、ポテトチップスしかり)
コアラのマーチ、ドイツ版
隣人からもらったオレンジ
隣人から誕生日にもらった木を削るナイフを腰に吊るすことができる、サバイバル用のベルト
携帯用水筒
小型ゲーム、IQ
サバイバル用のベルトは良く出来ていて、今回購入したスイス製水筒も携帯できるようになっています。この水筒も良く出来ていて、表面に印刷されている恐竜とキャップ部分が暗闇で光ります。
また、小型ゲームのIQは、結構面白く、特にピラミッド状に組み上げることができたときの達成感がすごい。
先生は新任で、典型的ドイツ人!といった顔をしている綺麗な方です。しかし、幼稚園の先生と以前話したとき、その方の子供の先生が新任の先生で、ぜんぜん良くなかった、という話を聞いていたので、最初はちょっと心配でした。でも、話をしてみるととても理路整然とテキパキと話す先生なので、現在は安心しています。ただ、大人の評価と子供たちの評価は必ずしも一致するとは限らないので、これから注意深く、息子の様子を観察していこうと思います。
学校の校舎は、以前も書いたことがあるのですが、ミュンヘンの新古典主義を代表する建築家、ハンス・グレーゼルの設計です。内部ホールにある必要以上に多い階段に時代を感じます。
子供たちと先生が一時間ほど教室で入学式の説明をしている間、親たちは地下に開かれたカフェで休憩していました。その後、ホールへ移動し、校長先生のお話があり、11時30分には終了です。その後、地下へ降りてゆき、午後、子供たちの面倒をみてくれる施設に挨拶へ行きました。
ドイツの小学校では、基本的に午前中で授業が終わります。そして宿題は、家でするか、もしくはこの宿題の面倒をみてくれる施設へ預かってもらいます。しかし、この施設に預かってもらうのが難しい、何故ならば、人数に限りがあるからです。息子の場合も、ぎりぎりになってかろうじて一人分の空が生まれ、最後の一人として滑り込むことが出来ました。ミュンヘンでは、公立の施設では、幼稚園にしろ、この午後の施設にしろ、こんな困難なシュチュエイションばかり起きます。というのは、基本、カトリックの伝統が根強い地域なので、女性は家にいて、家事と育児に専念するべきだ、という観念が強い、ということを聞いたことがあります。ししてその考えに基づくならば、幼稚園にしろ、午後の施設にしろ、必要ないのです。
しかし、現実には離婚率も非常に高いですから、片親の家庭も多いですし、若いジェネレーションでは共働きも多いですから、こういった施設が非常に不足しています。そういったわけで、この施設へ入ることができたのは、本当にラッキーであるとともに、妻の努力のお陰でもあります。
後日、何度か、この施設へ息子を迎えにいったのですが、すっかり周囲になじんでおり、まるで数年来ここに通っているのだというような雰囲気を醸し出していたので笑ってしまいました。また、面倒をみてくださる方たちもとても気さくな方々で、訪問するたびに日本の文化について質問をぶつけてきます。ひとまず、いいところにはいることができたんだな、ということで、ほっと一息つきました。
その後、近くの教会で入学の祝いがあり、それが終わると、シュールトゥーテをもって、幼稚園へ挨拶へ行きました。この挨拶も慣わしだそうです。生憎、息子の面倒をしてくださった二人の先生(そのうちの一人の方と息子は結婚をしたいのだそうです)は不在だったのですが、一番面倒をみてくださった先生には、息子の晴れ姿を見てもらうことができました。
これから長く続く、学習人生、その幕があがりました。息子には、是非、物事を知り理解する楽しみを味わいながら進んでいってもらいたいと願っています。
2013年9月21日土曜日
ニース家族旅行
もう、あれからかれこれ10日ほど過ぎてしまったのだけれど、9月のはじめ、フランスのニースへ家族旅行で行ってきました。
そもそもニースを選んだ理由は、子供もいることだし、海に近いこと。かつて、長男が1才半のとき、イタリアのシエナにいったことがあります。これはきつかった。そもそも、観光名所なるものに幼児が興味を示すはずもなく、ゴミ箱やATMにかじりついて離れない。そして噴水のまわりでは水を汲んでは捨てるというのを延々一時間以上繰り返す。そしてシエナにたどり着くのも一苦労。ミュンヘンからローマに飛んで、そこから電車にのったが、イタリアの電車のうるさいこと、そして暑いこと。息子はたまらず汚い床にころがってダダをこね、乗り換え地にはもう電車に乗りたくないので号泣。そんな、つらい思い出があったので、海に近いこと、これは必須でした。
次に、フランス語圏。当初、自分はフランスではなく、スペインのメノルカ島に行きたいと考えていたのだけど、妻がフランス語を習っているので、是非、フランス語圏へいきたい、と主張。しかし、マルセイユは前回の訪問であまりよい印象がなかったので、ちょっと北にいってニースはどうか、ということになりました。
そして、空港からの近さ。地図を見てみると、結構近いな、というだけの感想だったのですが、実際には、普通の市民バスで約15分で市内へ到着する。これはかなり快適でした。
今回は、ほんとーの意味で休暇、というものを満喫。
人生において初の試みかもしれない。。
建築探索は、99パーセント、しなかったものの、とても楽しい休暇でした。
その一番の要因は、もちろん、家族旅行だった、ということもあるけど、ほぼ一週間滞在した、アパートメントがとても良かったからだと思います。
ここの住人でもあるクリスティーネは、どうやらここに一人暮らしをしているらしく、普段はこのアパートメントの一室のみ貸しているらしい。今回、自分たちの要望、
・ キッチンを使いたい
・ 洗濯物をしたい
に応えてくれ、アパートメント全体を貸してくれました。
床面積、約60~70平米。4階、一泊70ユーロ。海岸まで徒歩5分、商店街近し。
これは本当に格安で、抜群のアパートメントでした。
そして、フランス人って、とても親切で、ユーモアがある。ドイツから来ていたということもあり、人々の対応に、とても感動。というか、ニース滞在中はドイツ人って、なんなの??という気持ちにメラメラと炎がついていました。
しかし面白いというか不思議なもので、休暇をとるとどういうわけか一気に語学が上達します。今回も例にもれず、一段と言語能力が飛躍し、休暇後のドイツ生活でも、とても楽しい日々を過ごしています。
ところで、休暇中は天候にも恵まれ、一日だけ曇っていたけど、それ以外は真夏日。というわけで、ほぼ毎日海水浴を楽みました。
朝は、近くのパン屋にいって、クロワッサンとバゲット、息子はトラサルディーというチョコを練りこんだクロワッサン生地のパン。そして、羊のチーズによく合う洋梨のジャム、あるいはテリーヌをバゲットに塗って食べる。フランスの食べ物の美味しさには本当に仰天。なにしろ、ワタシたちは、ドイツからやってきているので。。。
バゲットはほぼ同じパン屋から買ったんだけど、これが本当にサクサク。一度、レストランという名の、ちょっと太いバゲットを試してみたけど、妻いわく、これは表面がサクッとしていないので、普通の細いバゲットのほうが良い、とのご意見。食べてみると、なるほど、その通り。ちょうど、このレストランというバゲットを買ったのはいつものパン屋とは違う場所で、自分は、その太いバゲットを手に、いつものパン屋へクロワッサンを買いにいきました。すると、なぜか店のおっちゃんが頼んでいないバゲットを手に取り、一緒に手渡してくる。なんだ、なんだ?と思っていると、セ、カド!とおっしゃる。手に持っているそのバゲットはうまくないんだぜ、こっちのがいいから試してみろよ、というのです。その後も色々説明してくれたけど、仏語、チンウンカンプン。でも、この日以降、バゲットも毎日、このパン屋で買うことにしました。雨の日の朝、このパン屋でバゲットを買って、店を出ようとすると、ムシュー、ムシューと呼ぶ声が後ろから追いかけて来る。そして、あのおっちゃんが、ビニール袋を紙袋にかぶせ、ウィンクして去っていきます。いいなぁ、フランス人っていいなぁ~。フランスに移住しようかしら!???
ところで、アパートに話を戻しますが、ここを貸してくれたクリスティーネとは、自分たちもフランス語を話したい、ということで、一度、昼食に招待し、中庭に面するテラスで妻の作ってくれた生姜焼きを食べながら話しました。妻のフランス語が通じることにちょっとびっくりしたけど、自分もごくまれに、おぼつかないフランス語を駆使して会話を楽しみました。その横で、息子は何を話しているかわからず、ふてくされていたので、彼女に、静かな子ね、といわれてしまったのですが。。
インテリアのセンスがいいなぁ、と思っていたら、案の定、彼女はアンティークの店で働いているとのこと。また、かつて小学校の先生をしていたので、色々とフランス語についても丁寧に直してくれました。娘さんも大学を卒業し、この街で就職を探しているし、兄弟も住んでいる、ということだったのですっかりニース出身の人かと思っていたら、フランス北部出身ということで驚き。ニース、住みやすいところなんだろうなぁ。すぐ泳ぎにいけるし。
さて、真夏日の中、僕たちはほぼ毎日海水浴を楽しんだのだけど、ちょっと問題が。ニース、海岸が、砂ではなく、石で敷き詰められている。で、足裏が痛いのなんの!内臓が弱っていると、足裏のツボを押されるとすごく痛いなどというけど、きっと体中故障しまくっているらしく、まともに歩くことが出来ません。波打ち際は、波がぶつかるせいで陸部分が急勾配になっている。そこから上に登るときが一苦労。そして立ち往生していると、容赦なく後ろから波が打ち寄せ、体のバランスを不安定にさせます。そして、足裏に痛みが襲ってくる。次男を抱っこしたまま海から戻るときには、彼の体重も加味されるので、本当に苦労しました。
一方で、この石のおかげでパラソルは非常に立てやすく、おまけに砂嵐にやられることもないのでパラソルの下でおやつを食べているときはとても快適。おまけに九月に入っているので、人もそんなに多くない。場所取りにあくせくすることもありません。自分たちは足裏が痛いので、なるべく波打ち際にパラソルをたてました。
長男は、綺麗な石を集めるのが好きで、海岸の石をくまなく調べていました。いくつか集めた中でも感心したのは、珊瑚のかどのとれて丸くなった石を見つけてきたこと。
この、湾沿いに走る大通り、プロムナード・デ・アングレからアクセスする海水浴場には魚があまりいなかったこともあり(といっても、妻は蛸が海底にへばりついているのを見たらしい。夕食のおかずにするか、と思いその後探したけど、見つけることが出来なかった)、計二回ほど、自分のキャラでもある無謀な計画性のないエクスカーションを敢行しました。これには、不満をもらしても逆切れされることを心得ている妻は何も言いません。そのことが逆にプレッシャーとなり、是が非でもこのエクスカーションを成功させねばならない、という使命感にメラメラと燃えるのですが。。
というわけで、一回目のエクスカーションはグーグルストリートビューで見たら綺麗だった、という理由で、東側に突出する半島部分まで、バスを乗り継いで行ってまいりました。
余談になるのですが、ニースの市内の移動は主にバスによることになりますが、これが結構複雑。一方通行が多いせいで、ノボリとクダリのバスストップが同じ通り沿いにない場合が多く、こうなると、色々な路線が錯綜していることもあり、どこにいっったらいいのやら、非常に迷う。しかし、空港で買った15ユーロの、7日間有効パスは、ちょっとした遠出にも使うことができ、計画していたよりも多くバスを使ったので、とてもオトク感があった。これで、北はモナコ公国、南はカンヌの直前まで(この直前というのがとても曲者ですが)行けるとのことです。もちろん、行きませんでしたが。
本題にもどって、エクスカーション。バスはニースの港を過ぎると、半島を突っ切って反対側の湾に沿って進みます、が、なんと。路線は、この半島の稜線に沿って走るということが判明。走るに従って、高度はグングンと上昇し、海岸は、遥か彼方。ここで途中下車しても、海岸にたどり着くためには、とてもキツイ勾配を上り下りせねばなりませぬ。すわ、計画ミスか!(計画などないのですが)、と動揺しながら、まだ、ここは降りるべきところではない、次も違う、と、バス・ストップが近づくたびにナーバスになります。そして、結局目的の湾を通り過ぎてしまいました。さて。地図を見ると、バスは第二の半島を突端に向かって走っています。そこまで様子を見てみるか、そんな気持ちになりかけたとき、バスは高度を下げ、海へ近づき、そして、しばらくすると砂浜が見えました。息子のマダカマダカ・コールに背中を押され、よし、ここで降りよう!大号令を発し、下車しました。
この場所が、大当たり。まず、砂浜。そして、まばらな人、波打ち際までほぼ1メートルの距離にパラソルを差し、海水浴を堪能しました。息子も一番よかったのは、この場所だった、とのちのちいっていました。そして、なんといっても、魚を沢山みることができたのが良かった。自分が一番感動したのは、ちょっとした深みのある場所で、海底に背の低い海草が生えている場所。ここに、約30センチほどの平べったい魚が群れをなし、海草に付着していると思われるエサをついばんでいるのです。そしてちょっとした海の流れに身をまかせ、魚身が揺らめくたびに、光を反射させて銀色に輝きます。
息子は、シュノーケルと足ひれをつけて、泳ぐ練習に熱心です。そんな彼にこの魚の群れを見せてあげたいと思ったんだけど、その直前に、ウニを見たよ、と口走ってしまったのが失敗でした。浅瀬部分を選んで深いところに連れ出そうとしたけれど、ウニが足の裏に刺さる、という強烈な恐怖に襲われてしまった息子は、必死の抵抗を試み、まるで私が人さらいでもあるかのような悪態をついたあと、浜へ戻ってしまいました。
その後、妻も、十分に海中の様子を楽しんだあと、夕刻に家へ戻りました。
二回目のエクスカーションは、予備調査の必要性を感じ、翌々日に早起きをし、ニース港めがけてジョギングをすることから始めました。しかし、いい場所がみつからなかったので、やめておけばいいのに、港を越えて、半島の突端までジョギング敢行。半島の突端は磯で、道路から急な階段を下りるとたどり着くことが出来そうでした。磯の生物も満載ではないか、そんなことから、エクスカーションはここにすることに決めました。ジョギングに費やした時間、約1時間半、途中へたばり歩いてしまったためこんなに時間がかかってしまったのだけど、ジョギングのついでにパンを買ってくると約束していたこともあり、案の定、アパートメントに到着すると、なんでこんなに時間がかかったんだ?と怒られる始末。
この場所は、結構バスの接続が悪く、しかもバスの来る回数もあんまり多くない。こんなことが、この磯に人があまり来ない要因なのかもしれません。午後、なかなか来ないバスにイライラしながらもやっとみんなでこの磯に到着することができました。この場所が自分的には一番いいところでした。しかしいつものように問題はあって、それは、波が荒いということ。そして岩場なので、足元がつるつるしている。従って、次男を抱きかかえて海に入るというのは至難の業で、結局、手すりのついている場所で、手すりにしがみつきながら息子を抱きかかえ水に浸かる程度のことしかできません。
しかし、長男と泳ぐには最高の場所で、シュノーケリングとフィンでバッチリ装備した息子と多くの魚観察にいそしみました。また、蟹なども多く、長男は、雄たけびをあげていました。
あとひとつ、海側からしかたどり着くことの出来ない、磐に囲い込まれた浜があり、そこには色とりどりの角のとれたガラス片が浜の砂利に混じって散在しており、長男は、うわぁ、綺麗!といってこれも収集していました。
魚は、夕暮れになると岸に集まってくるのか、夕刻近づくと魚の数も一気に増加し、魚たちの間を泳ぐといったような状態です。この場所には、次回、ニースにいく機会があれば、また行ってみたいと思います。
フランスといえば食文化。
これには最近ドイツ人化しているといわれることの多い自分もすっかり魅了されました。まず、バゲットの美味しさは最高。チーズ、最高。トマトも、あまりドイツではみたことのない皺皺のトマトが売っており、これが最高。ガレットとう名のビスケット最高。あげていけばきりがないけど、食べ物に対する繊細さが、もうドイツとは決定的に違う。なんというか、肌理が細かい。こんな味を探知する場所が、口の中にあったのか、ということを教えてくれるような、そういった衝撃を覚えました。
妻がパティスリーということもあり、CANETというケーキ屋に行って来ました。イメージとしては、いちよう南国ということであんまりケーキには期待していませんでした。かつて訪れたマルセイユでは、キャラメルの層が1センチはあるかと思われるケーキを完食できず捨てた苦い記憶があります。しかし、ここのケーキは、驚くぐらいう・ま・い!自分が買ったのは見た目派手さのないチョコレートケーキだったのですが、最初の一片を口にいれた途端、叫んでしまいました。
うまい!!!!
チョコレートの層の中に。クリスピーなものが入っており、咀嚼するたびに爽快感とまろやかな味が口内に広がります。こんなの、食べたこと、ないぜ!と痛く感動してしまいました。大部分の日本人パティスリーがフランスで経験を積みたいと考える、というのも納得できる美味しさです。
そもそもニースを選んだ理由は、子供もいることだし、海に近いこと。かつて、長男が1才半のとき、イタリアのシエナにいったことがあります。これはきつかった。そもそも、観光名所なるものに幼児が興味を示すはずもなく、ゴミ箱やATMにかじりついて離れない。そして噴水のまわりでは水を汲んでは捨てるというのを延々一時間以上繰り返す。そしてシエナにたどり着くのも一苦労。ミュンヘンからローマに飛んで、そこから電車にのったが、イタリアの電車のうるさいこと、そして暑いこと。息子はたまらず汚い床にころがってダダをこね、乗り換え地にはもう電車に乗りたくないので号泣。そんな、つらい思い出があったので、海に近いこと、これは必須でした。
次に、フランス語圏。当初、自分はフランスではなく、スペインのメノルカ島に行きたいと考えていたのだけど、妻がフランス語を習っているので、是非、フランス語圏へいきたい、と主張。しかし、マルセイユは前回の訪問であまりよい印象がなかったので、ちょっと北にいってニースはどうか、ということになりました。
そして、空港からの近さ。地図を見てみると、結構近いな、というだけの感想だったのですが、実際には、普通の市民バスで約15分で市内へ到着する。これはかなり快適でした。
今回は、ほんとーの意味で休暇、というものを満喫。
人生において初の試みかもしれない。。
建築探索は、99パーセント、しなかったものの、とても楽しい休暇でした。
その一番の要因は、もちろん、家族旅行だった、ということもあるけど、ほぼ一週間滞在した、アパートメントがとても良かったからだと思います。
ここの住人でもあるクリスティーネは、どうやらここに一人暮らしをしているらしく、普段はこのアパートメントの一室のみ貸しているらしい。今回、自分たちの要望、
・ キッチンを使いたい
・ 洗濯物をしたい
に応えてくれ、アパートメント全体を貸してくれました。
床面積、約60~70平米。4階、一泊70ユーロ。海岸まで徒歩5分、商店街近し。
これは本当に格安で、抜群のアパートメントでした。
そして、フランス人って、とても親切で、ユーモアがある。ドイツから来ていたということもあり、人々の対応に、とても感動。というか、ニース滞在中はドイツ人って、なんなの??という気持ちにメラメラと炎がついていました。
しかし面白いというか不思議なもので、休暇をとるとどういうわけか一気に語学が上達します。今回も例にもれず、一段と言語能力が飛躍し、休暇後のドイツ生活でも、とても楽しい日々を過ごしています。
ところで、休暇中は天候にも恵まれ、一日だけ曇っていたけど、それ以外は真夏日。というわけで、ほぼ毎日海水浴を楽みました。
朝は、近くのパン屋にいって、クロワッサンとバゲット、息子はトラサルディーというチョコを練りこんだクロワッサン生地のパン。そして、羊のチーズによく合う洋梨のジャム、あるいはテリーヌをバゲットに塗って食べる。フランスの食べ物の美味しさには本当に仰天。なにしろ、ワタシたちは、ドイツからやってきているので。。。
バゲットはほぼ同じパン屋から買ったんだけど、これが本当にサクサク。一度、レストランという名の、ちょっと太いバゲットを試してみたけど、妻いわく、これは表面がサクッとしていないので、普通の細いバゲットのほうが良い、とのご意見。食べてみると、なるほど、その通り。ちょうど、このレストランというバゲットを買ったのはいつものパン屋とは違う場所で、自分は、その太いバゲットを手に、いつものパン屋へクロワッサンを買いにいきました。すると、なぜか店のおっちゃんが頼んでいないバゲットを手に取り、一緒に手渡してくる。なんだ、なんだ?と思っていると、セ、カド!とおっしゃる。手に持っているそのバゲットはうまくないんだぜ、こっちのがいいから試してみろよ、というのです。その後も色々説明してくれたけど、仏語、チンウンカンプン。でも、この日以降、バゲットも毎日、このパン屋で買うことにしました。雨の日の朝、このパン屋でバゲットを買って、店を出ようとすると、ムシュー、ムシューと呼ぶ声が後ろから追いかけて来る。そして、あのおっちゃんが、ビニール袋を紙袋にかぶせ、ウィンクして去っていきます。いいなぁ、フランス人っていいなぁ~。フランスに移住しようかしら!???
ところで、アパートに話を戻しますが、ここを貸してくれたクリスティーネとは、自分たちもフランス語を話したい、ということで、一度、昼食に招待し、中庭に面するテラスで妻の作ってくれた生姜焼きを食べながら話しました。妻のフランス語が通じることにちょっとびっくりしたけど、自分もごくまれに、おぼつかないフランス語を駆使して会話を楽しみました。その横で、息子は何を話しているかわからず、ふてくされていたので、彼女に、静かな子ね、といわれてしまったのですが。。
インテリアのセンスがいいなぁ、と思っていたら、案の定、彼女はアンティークの店で働いているとのこと。また、かつて小学校の先生をしていたので、色々とフランス語についても丁寧に直してくれました。娘さんも大学を卒業し、この街で就職を探しているし、兄弟も住んでいる、ということだったのですっかりニース出身の人かと思っていたら、フランス北部出身ということで驚き。ニース、住みやすいところなんだろうなぁ。すぐ泳ぎにいけるし。
さて、真夏日の中、僕たちはほぼ毎日海水浴を楽しんだのだけど、ちょっと問題が。ニース、海岸が、砂ではなく、石で敷き詰められている。で、足裏が痛いのなんの!内臓が弱っていると、足裏のツボを押されるとすごく痛いなどというけど、きっと体中故障しまくっているらしく、まともに歩くことが出来ません。波打ち際は、波がぶつかるせいで陸部分が急勾配になっている。そこから上に登るときが一苦労。そして立ち往生していると、容赦なく後ろから波が打ち寄せ、体のバランスを不安定にさせます。そして、足裏に痛みが襲ってくる。次男を抱っこしたまま海から戻るときには、彼の体重も加味されるので、本当に苦労しました。
一方で、この石のおかげでパラソルは非常に立てやすく、おまけに砂嵐にやられることもないのでパラソルの下でおやつを食べているときはとても快適。おまけに九月に入っているので、人もそんなに多くない。場所取りにあくせくすることもありません。自分たちは足裏が痛いので、なるべく波打ち際にパラソルをたてました。
長男は、綺麗な石を集めるのが好きで、海岸の石をくまなく調べていました。いくつか集めた中でも感心したのは、珊瑚のかどのとれて丸くなった石を見つけてきたこと。
この、湾沿いに走る大通り、プロムナード・デ・アングレからアクセスする海水浴場には魚があまりいなかったこともあり(といっても、妻は蛸が海底にへばりついているのを見たらしい。夕食のおかずにするか、と思いその後探したけど、見つけることが出来なかった)、計二回ほど、自分のキャラでもある無謀な計画性のないエクスカーションを敢行しました。これには、不満をもらしても逆切れされることを心得ている妻は何も言いません。そのことが逆にプレッシャーとなり、是が非でもこのエクスカーションを成功させねばならない、という使命感にメラメラと燃えるのですが。。
というわけで、一回目のエクスカーションはグーグルストリートビューで見たら綺麗だった、という理由で、東側に突出する半島部分まで、バスを乗り継いで行ってまいりました。
余談になるのですが、ニースの市内の移動は主にバスによることになりますが、これが結構複雑。一方通行が多いせいで、ノボリとクダリのバスストップが同じ通り沿いにない場合が多く、こうなると、色々な路線が錯綜していることもあり、どこにいっったらいいのやら、非常に迷う。しかし、空港で買った15ユーロの、7日間有効パスは、ちょっとした遠出にも使うことができ、計画していたよりも多くバスを使ったので、とてもオトク感があった。これで、北はモナコ公国、南はカンヌの直前まで(この直前というのがとても曲者ですが)行けるとのことです。もちろん、行きませんでしたが。
本題にもどって、エクスカーション。バスはニースの港を過ぎると、半島を突っ切って反対側の湾に沿って進みます、が、なんと。路線は、この半島の稜線に沿って走るということが判明。走るに従って、高度はグングンと上昇し、海岸は、遥か彼方。ここで途中下車しても、海岸にたどり着くためには、とてもキツイ勾配を上り下りせねばなりませぬ。すわ、計画ミスか!(計画などないのですが)、と動揺しながら、まだ、ここは降りるべきところではない、次も違う、と、バス・ストップが近づくたびにナーバスになります。そして、結局目的の湾を通り過ぎてしまいました。さて。地図を見ると、バスは第二の半島を突端に向かって走っています。そこまで様子を見てみるか、そんな気持ちになりかけたとき、バスは高度を下げ、海へ近づき、そして、しばらくすると砂浜が見えました。息子のマダカマダカ・コールに背中を押され、よし、ここで降りよう!大号令を発し、下車しました。
この場所が、大当たり。まず、砂浜。そして、まばらな人、波打ち際までほぼ1メートルの距離にパラソルを差し、海水浴を堪能しました。息子も一番よかったのは、この場所だった、とのちのちいっていました。そして、なんといっても、魚を沢山みることができたのが良かった。自分が一番感動したのは、ちょっとした深みのある場所で、海底に背の低い海草が生えている場所。ここに、約30センチほどの平べったい魚が群れをなし、海草に付着していると思われるエサをついばんでいるのです。そしてちょっとした海の流れに身をまかせ、魚身が揺らめくたびに、光を反射させて銀色に輝きます。
息子は、シュノーケルと足ひれをつけて、泳ぐ練習に熱心です。そんな彼にこの魚の群れを見せてあげたいと思ったんだけど、その直前に、ウニを見たよ、と口走ってしまったのが失敗でした。浅瀬部分を選んで深いところに連れ出そうとしたけれど、ウニが足の裏に刺さる、という強烈な恐怖に襲われてしまった息子は、必死の抵抗を試み、まるで私が人さらいでもあるかのような悪態をついたあと、浜へ戻ってしまいました。
その後、妻も、十分に海中の様子を楽しんだあと、夕刻に家へ戻りました。
二回目のエクスカーションは、予備調査の必要性を感じ、翌々日に早起きをし、ニース港めがけてジョギングをすることから始めました。しかし、いい場所がみつからなかったので、やめておけばいいのに、港を越えて、半島の突端までジョギング敢行。半島の突端は磯で、道路から急な階段を下りるとたどり着くことが出来そうでした。磯の生物も満載ではないか、そんなことから、エクスカーションはここにすることに決めました。ジョギングに費やした時間、約1時間半、途中へたばり歩いてしまったためこんなに時間がかかってしまったのだけど、ジョギングのついでにパンを買ってくると約束していたこともあり、案の定、アパートメントに到着すると、なんでこんなに時間がかかったんだ?と怒られる始末。
この場所は、結構バスの接続が悪く、しかもバスの来る回数もあんまり多くない。こんなことが、この磯に人があまり来ない要因なのかもしれません。午後、なかなか来ないバスにイライラしながらもやっとみんなでこの磯に到着することができました。この場所が自分的には一番いいところでした。しかしいつものように問題はあって、それは、波が荒いということ。そして岩場なので、足元がつるつるしている。従って、次男を抱きかかえて海に入るというのは至難の業で、結局、手すりのついている場所で、手すりにしがみつきながら息子を抱きかかえ水に浸かる程度のことしかできません。
しかし、長男と泳ぐには最高の場所で、シュノーケリングとフィンでバッチリ装備した息子と多くの魚観察にいそしみました。また、蟹なども多く、長男は、雄たけびをあげていました。
あとひとつ、海側からしかたどり着くことの出来ない、磐に囲い込まれた浜があり、そこには色とりどりの角のとれたガラス片が浜の砂利に混じって散在しており、長男は、うわぁ、綺麗!といってこれも収集していました。
魚は、夕暮れになると岸に集まってくるのか、夕刻近づくと魚の数も一気に増加し、魚たちの間を泳ぐといったような状態です。この場所には、次回、ニースにいく機会があれば、また行ってみたいと思います。
フランスといえば食文化。
これには最近ドイツ人化しているといわれることの多い自分もすっかり魅了されました。まず、バゲットの美味しさは最高。チーズ、最高。トマトも、あまりドイツではみたことのない皺皺のトマトが売っており、これが最高。ガレットとう名のビスケット最高。あげていけばきりがないけど、食べ物に対する繊細さが、もうドイツとは決定的に違う。なんというか、肌理が細かい。こんな味を探知する場所が、口の中にあったのか、ということを教えてくれるような、そういった衝撃を覚えました。
妻がパティスリーということもあり、CANETというケーキ屋に行って来ました。イメージとしては、いちよう南国ということであんまりケーキには期待していませんでした。かつて訪れたマルセイユでは、キャラメルの層が1センチはあるかと思われるケーキを完食できず捨てた苦い記憶があります。しかし、ここのケーキは、驚くぐらいう・ま・い!自分が買ったのは見た目派手さのないチョコレートケーキだったのですが、最初の一片を口にいれた途端、叫んでしまいました。
うまい!!!!
チョコレートの層の中に。クリスピーなものが入っており、咀嚼するたびに爽快感とまろやかな味が口内に広がります。こんなの、食べたこと、ないぜ!と痛く感動してしまいました。大部分の日本人パティスリーがフランスで経験を積みたいと考える、というのも納得できる美味しさです。
最終日には、いきつけのパン屋でもちょっとしたケーキを買って空港で食べたのですが、これもうまかった。
日本人が海に近い場所にいく、ということで食べなければいけないものといえば、間違いなく魚でです。というわけで、スーパーで一匹2ユーロという格安な値段で売られていた、Dorade、ヨーロッパヘダイというらしい、これを食べました。フライパンでただ焼いて、しょうゆをつけて食べたけど、おいしかった!二回ほど、食しました。
その他、観光案内所でフィッシュマーケットの場所を聞き出し、出かけてきました。場所は旧市街のはずれで、出ている店の数も3店程度で少なめ。最初はこれだけ?と拍子抜けしてしまったけど、魚は安かったです。小ぶりな鯖を三匹、購入し、約2,5ユーロ。海老6ぴきと小さなイカ9匹はちょっと高くて、15ユーロくらいしましたが、これも、とっても美味しかったです。特にミュンヘンで生活していると新鮮なサバなど、滅多に食べられないので、よかった!
店のおばあちゃんに、どこからきたのか聞かれ、日本だ、と答えると、東北大震災の津波被害はひどかったね、おまえさんたちの親族は大丈夫だったのかい、と聞かれました。フランス語の氷の発音の仕方を教えてもらい、息子は、メルシーの練習をさせられていました。
建築的には、1パーセントぐらい、通りがけに興味のあるものをスナップしたぐらいですが、そのうちの一枚、角部にたつドーム上の屋根がドイツとはとっても違う、造形をしているのが印象的でした。街灯にプランターを取り付け、こんもり茂っている植物たちも綺麗でした。旧市街は、もうちょっと探索したかったのだけど、子供たちを連れての探索は骨が折れます。次回のテーマとして取っておきたいと思います。
美術館の訪問は、悪天候の日を選んで敢行。シャガールとマチィス、どちらの美術館にしよう、というこで、シャガール美術館へ行って来ました。息子は興奮すると思ったんだけど、つまんない。。。とのこと。ここは作品数が圧倒的にすくなく、自分的にも不満足でした。聖書を題材とした絵画が多く、ここで一番日本人観光客とすれ違いました。
フランスショックに罹患してしまい、これはしばらく長引きそうです。今回の心残りはニースの近くにあるSt.Paulを訪問することができなかった事。いずれまた行きたい場所です。
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