2012年5月29日火曜日

ドイツ建築旅行 ベルリン

紀行を書いていると、一番最後に一番感動したことを書こう、とためておりて、結局息切れして書かずに終わってしまう。ウィーンでのワーグナー、ポストシュパーカッセについてはまだ書かずにいる。

そんなわけで、昨日、今日とミュンヘンの、今まで見てこなかった建築を訪問してきた感想を書く欲望がむくむくと頭をもたげてくるわけだが、ここはそれを我慢して先日のドイツ建築旅行をベルリンの章にてしめくくりたいと思う。

フンボルト大学 図書館 マックス・デュデュラー
ドイツ建築旅行の最終日の前日、午後7時ごろにベルリンに到着した。とりあえずホステルにチェックインし、マックス・デュデュラーのフンボルト大学図書館を見に行く。時間が時間なので、その日に見れるのはこの建物だけ。しかし、大いに期待するものがあった。
しかし、ベルリンっ子はこの建物、全然しらねぇのな。場所を二人ぐらいに聞いて、とってもトンチンカンな方向を言われた。警察官に聞いても同じようにトンチンカンな方向を指す。僕はその時、フリーデンシュトラーセという、この図書館が徒歩5分圏にあるはずの場所にいたのだが、みんなここから15分くらいかかるという。そこで、みんなの意見を無視して自分の直感に頼る。そして、発見できた。

ところが。ロッカーの鍵は南京錠で、それを持参しなければいけないのだった。自分は大きい荷物を持っている。そこでホステルへ一度帰り、荷物を置いて再び図書館を訪れた。

建物の内部は撮影禁止だったので、写真は残念ながら貼ることが出来ないので、建築家のHPのリンクを貼っておく。

Max Dudler
http://www.maxdudler.com/

そして建物の写真
http://www.maxdudler.com/43-0-Jacob-und-Wilhelm-Grimm-Zentrum+Berlin.html?animateProject=1

建物の写真のリンクで、ページの右側にカーソルを置くとスクロールできるようになっているので、内部空間の写真をみていただきたい。

ウンガース事務所出身者の常で、グリッドの繰り返し。しかし、この内部空間の異様な象徴性はどうしたものか。テーブルについてしばし、向こう側で勉強に励む人々を観察しながら、威容を誇るホールをボーゼンと眺め続ける。

翌日、ミースの新ナショナルギャラリーを見にいくためにポツダム広場にて下車。そこでばったり蚤の市に遭遇。そこで、一目惚れした洋裁道具入れを35ユーロにて購入。飛行機に乗って、その日にミュンヘンへ飛ばなければいけないことや、その後幾つもの美術館を訪問しなければいけない、と一瞬頭によぎったが、このチャンスを逃す手はない。
この洋裁道具箱は足とトッテがついて高さ約60センチ、幅、40センチという代物。使い込まれた木の風合いが良く、両側に蛇腹のようにパカッと開く。中には針やら糸やらがゴッソリと詰まっている。息子の工作道具収納箱にはもってこいだ。
そこでエッコラオッチラ、取手を握り締めながら広場からナショナルギャラリーへの道を歩いた。

新ナショナルギャラリー
正直に申しまして、この外観、最初に訪問したときには何がいいのかまったくわからず、入場料の高さも手伝って入るのをやめてしまった。今回は、入場する覚悟で訪問したわけだ。階段を下りるとレセプションルーム兼休憩室の大きめのホールがある。非常にすっきりしたデザインだ。ちなみに地上階は何も展示されておらず、見学することができなかった。もう一度、繰り返す。非常にすっきりしたデザインで、抽象化されたデザインだ。床と天井の間に仕切りがはめ込まれている。庭に面している部屋はジャッドなどの抽象彫刻が展示され、現在はそうではないがかつては床に敷き詰められた床材が、庭に敷き詰められた石の床材と同じ大きさで、内と外の境界の分断を緩くする意図があったらしい。


庭は美しい。バルセロナパビリオンを彷彿とさせる。バルセロナ、行きたいなぁ。


今回は、シャローンの国会図書館も見たい、と思ったんだけど、生憎、祝日ということで閉館。前回来た時も改修中で休館。本当に相性が悪い。この図書館、ヴェンダースのベルリン天使の詩に登場することでも有名です。

仕方ないので、ミュージアムインゼル、美術館の島へ。
まずここで最初に見たのは、アルテス・ムゼウム。古典様式建築、シンケルの代表作。
アルテス・ムゼウム
ここから、古代の遺産を巡る長い美術館訪問が始まるとは想像していなかった。
まず、この美術館には、ギリシャ時代からローマ時代へかけての神殿や墓所の彫刻群が展示されている。
しかし、そんなことよりも、シンケルの建築である。ミュンヘンっ子にはクレンツェやゲルトナーの好敵手という感覚も強いだろうが、世界的知名度からいうと、まったく話にならないくらいシンケルのほうが有名だ。たしか、シンケル、クレンツェともにベルリンでギリーの教えを受けていたと記憶しているのだが。
あの有名な階段室、そしてドーム。詳細はわからないが、これは大戦で破壊されたのだろうか。なにやらチープさが目だってそれほどの感動を呼び起こさない。ドーム空間も、僕はどちらかというとこんなに象徴的なものよりも、ゲーテハウス的な、アシンメトリーさ、日本空間的(ゲーテについて言及し、日本空間的なテーストについて述べるのも、はっきり言っておかしな話だが)なものに魅力を感じる。ところで、気になったことがあって、ミュンヘンのピナコテークデアモデルネの天窓は、この美術館の天窓を模倣したものなのだろうか。


ノイエス・ムゼウム
いまいち、ベルリンの美術館のネーミングとその展示内容が記憶できないのは自分だけだろうか。今調べた結果によると、こういうことになっているようだ。ミュージアムという名前のついているものは博物館的なもので、ナショナルギャラリーが絵画的展示内容。
調べたおかげで、なぜに展示内容のかぶっているアルテス・ムゼウムとノイエス・ムゼウムがあるのか、といった謎も解けた。



Altes Museum 古い博物館。シンケル設計
Alte Nationalgalerie 古い美術館。今回は訪問しなかった
Neues Museum 新しい博物館。チッパーフィールドによる改修
Neue Nationalgalerie 新しい美術館。

おまけに、ミュンヘンの美術館がピナコテークと称しているのは、ベルリンを意識してからのことなのだろうか。
ところで、このノイエス・ムゼウム、あまりにチッパーフィールドの仕事が多角的すぎて、結局彼が何をしたかったのか、いまいち良くわからなかった。改修という案件からいくと、まぁ仕方のないことなのだろうが、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークを戦後の混乱期に復旧させたデルガストの手法と比較すると、チッパーフィールドの混乱振りもよくわかるというものだ。
この建物のメインはなんといっても中央階段室。


材質は人工石。表面の違いで様々な表情を出している。この質感は好き。最近は、レンガの上にレンガの目地漆がわかるように塗ってある壁の表情が好きだ。



この後、飛行機の関係もあり、30分ほどの駆け足でペルガモン博物館を見に行った。正直、30分で見れる物量と情報量であるはずがない。しかし、あの神々と巨人族の戦いのレリーフを見れたのは良かった。
しかし、ペルガモンとミレーを訪問して、すっからかんだなぁ、と感じたのもそのはず、これだけのものがドイツへはこばれてしまっているのだからしょうがない。しかし、現地にそのまま存在し続けるよりも、ドイツへはこばれるたことによって今の保存状況を保っていることができる、といった話はどこかで聞いたことがある。
太古に想いを馳せると、人間の歩んできた、蓄積してきた莫大な遺産と情報量、努力に敬意を表さざるを得ない。今回の旅は、近代というほんの束の間に起きたこの凄まじい速度の変化の時代が、人類歴史の中で、どのようなものであるのか、といったことの片鱗を垣間見ることが出来た、という意味において、本当に充実したものだった。
あ、ところで、今日、博士論文、ミュンヘン工科大学に無事に提出することができました。いやっほう!

Heute konnte ich problemlos meine Doktorarbeit zur TU München abgeben. Ich freue mich darüber sehr!

2012年5月21日月曜日

ドイツ建築旅行 デッサウ

バウハウス発祥の地から電車で約二時間半、更にベルリンの方向へ走るとデッサウに着く。デッサウでは、郊外のバスで10分ほどのところに宿泊した。夕刻8時くらいに駅に着いたのだが、もうバスがない。途方にくれ、他路線のバスの運ちゃんに、ここに行きたいんだが、と聞くと、電話して予約すれば、一時間後に来るよ、と教えてもらう。腹を決めて電話をかけると、どうやら目的地を通過するバスがまだあるようだった。
親切な運転手が、ペンションまでの手はずを整えてくれた。

ペンションは、一泊4000円ほどで、こんなにいいところに泊れるの?と驚いたほど広い部屋。朝食も満足した。














バウハウス デッサウ
翌日、デッサウの街からグロピウスの設計したバウハウス校舎へ向かう。この校舎でも、またグロピウスの熱いなにかを感じた。とにかく、建築的エレメントと塗装とのコンビネーション、更に当時はセンセーションだったガラス張りのファサード。幅広い階段室や、照明とのコンビネーション。全てが、僕にはデカルト的空間とは全く異質のものに映った。これはとっても新鮮だった。これまで、グロピウスには、おせじにも感心がある、とは言えなかったからだ。ところが、今回の旅行でグロピウス建築に触れ、その素晴らしさにすっかり魅了されてしまった。
今回の旅では、ズントーのコルンバ、アァヘン近郊のファン・デア・ラーンに続く、三度目のノックダウンだった。

いいなぁ、このテラス。このボリュームはデッサウの駅からテクテク歩いていくると最初にぶつかるボリュームで、かつての学生寮。現在は、ホテルとして宿泊できるらしい。知らんかった。。がっかり。知っていれば、今アトリエ・バウワウとの学生寮の設計に生かすために宿泊したかったのに。。このテラスの出っ張りと、手すりの固定の仕方、そして下に反り返ったテラスの先端がエロい。

こちらは道路をまたがっている部分をくぐると現れる、正門。見よ、このガラスの壁。当時はこんなのなかったんだぜ、今はそこらじゅうに溢れているけどね。
旧校舎は現在は、バウハウス財団の本部として使用されていて、学校は入っていない、といっていた。しかし、この校舎とマイスターハウスのガイドツアーが終わった後、カフェで寛いでいる時にブラジル人の学生と仲良くなり、この校舎で短期で都市計画のセミナーを受けているといっていたので、何かしらそういった講座はあるんだろう。


階段室。広い。
なんでも、当時のデッサウは現在とは比べ物にならないくらい工業都市として栄えていて、特に、暖房機と塗装の会社がここの本拠地を構えていたので、それらの会社と協働することによって新しいものを生み出そうとしたらしい。
そうしたこともあって、この広い階段室、大きなガラスファサードに面しているにも関わらず、申し訳なさそうに暖房機が掛かっていたりする。こんなの効果があるわけねぇ。
ついでに、塗装が凝っているのには、そういった理由があったからなのだろう。この校舎のグロピウスの校長室は、ほとんどワイマールの校長室と同じような設えなのだけれど、塗装床材がいい感じの風合いを出していてる。名前は忘れてしまったが、これは非常に有害なものなので現在は生産されていないが、ユネスコに登録されているので、もし磨り減ってしまったとしたら大変なことになる。なので、将来的には床にガラスを敷いて、床材を保護することになるかも知れない、といっていた。このとても有害なので、という説明を聞いて、すぐにこの部屋から逃げ出したくなった。
デッサウは残念ながら大戦によって破壊され、昔日の面影はほぼない。



ガラスの壁のコーナー。これが昔は一大センセーショナルだったんだって。ガラスとガラスがぶつかって、透明な角ができている、と。


でも、今の世の中には、こんなものもあるんですよ、グロピウスさん。これは、フランクフルト・アム・マインにあるマッシミリアーノ・フクサス設計によるアーケード。


階段室の開閉できる窓を開けると、こんな感じ。鎖を引いて開閉させるが、意外に軽く引くことが出来る。


記念だから、この有名な角度からの写真も撮ってきました。東ドイツ時代には、これまた痕跡を残さないほど改築されていたんだけど、当時の姿を復元。こまけぇなぁ、と思ったのは、わざわざ壁に埋め込まれた一階部分の庇からの縦樋。でも、微妙に色が違うから目立つ。


マイスターハウス
バウハウスでは、技術を重視する教育と、造形力を重視する教育が二つの柱としてあった。そして、名前の由来は以前に説明したとおり、カテドラルの建設に関わった職人たちのように、物事を作り上げること。だから生徒は、レアリンゲ、ゲゼレ、そして教えるほうもマイスターという。これは、ドイツの職人養成システムをそのまま受け継いでいる。従ってマイスターハウスとは、先生たちの住む場所。現在は、戦争で破壊された一棟を復元中で、そのほかの住棟も見学することができる。クレー、カンディンスキーなどが好きな人には堪らないものがあるだろう。
ガイドツアーの女性が、ここでもフランクフルトキッチンが使われている、という話をしたので、ハウス アム ホルンの時にもそういう説明をしていたなぁ、と思ったので聞いてみた。
フランクフルトキッチンというのはたしか、エルンスト・マイがフランクフルトで建設した集合住宅に利用して普及させたものだと思うのだけど、それは商品化されていたの???
ところが、どうやら女性の動きに合わせたニュータイプのキッチンを、当時はフランクフルターキッチンといったらしい。なるほどね。

2012年5月20日日曜日

ドイツ建築旅行 ワイマール

ワイマールでの目的は、ゲーテとシラー(?)、そしてバウハウス。結局、2日と半日間もこの街を散策することになった。この街は本当に小さい。その気になれば歩いて10分で端から端まで歩くことが出来る。そんな小さな町がここまで有名になったのは、言うまでもなく、ゲーテとシラー、ついでにヘルダーのおかげだろう。バッハ、リストもこの街に滞在していた。
現在、リストの名前を冠した音楽学校に学生が1000人、バウハウスに4000人で、合計5000人ほどの学生が住んでいる。
そして街の中央の街路は、絵画的に美しい。天候が悪く、青空のときに撮影しようと考えていたら、結局撮影する機会を逃してしまった。そして、ゲーテとバウハウスに夢中になりすぎて、シラーハウスは見学しなかった。また次回(?)。

ゲーテハウス、in Fraunplan
実はこの内部空間が素晴らしいのだが、撮影禁止なのでアップすることができない。こちらは、庭側から見たゲーテハウス。ここで、色々植物観察してたんだろうなぁ。ゲーテの小宇宙は広大で、本当にあらゆるものに興味を抱いていたひとなだなぁ、と実感した。色の研究、そして建築まで。今度、これを機会にまだ読んでいないイタリア旅行に手をつけたいと思う。そして、このゲーテハウスの内部空間も、イタリア旅行に強い影響を受けた空間の連続になっている。まず、オーバーディメンションな階段室。ゆったりとした階段を登ると、黄色い部屋にたどり着く。この南北軸に、部屋が3つ連なる。この軸は、表の広場に面した街路と、庭とを結ぶ。そしてこれよりもさらに有名なのが、直行する東西の軸だ。中央の扉を開け放つと、かの有名なパースペクティブが現れる。旅行の直前、偶然にもゲーテハウスの扉の高さが事務所内でテーマとなり、興味があって調べたのだが、1,95メートルぐらい。かなり、低い。昔の人は本当に小さかったんだなぁ。各部屋は独特の色で着色され、彫刻がいい按配で配置され、非常に魅力的だった。そういえば、ボールト屋根になっている黄色い部屋の隣のブリュッケン部屋という名前の部屋の中央には、ミュンヘンの王、ルートビッヒI世がゲーテ80歳の誕生日に寄贈した彫像が配置してあり、大理石の本物は、ミュンヘンのグリプトテークにあるらしいよ。
そういえば、今回の旅行ではすっかり古典の世界にも触れ、特にベルリンでだけれど、息子のこれからのテーマは、神話世界と決めた。

ゲーテ、ガーデンハウス
こちらは公園の中に建つ、ゲーテ、ガーデンハウス。これは有名らしいけど、個人的にはあんまり興味の持てる代物ではなかった。ゲーテはワイマールに招かれ、当初はここに数年間住んでいたそうだ。この家から、当時の領主であったカール・アウグストの仕事場兼別荘にも使っていたというローマハウスを遠望することができる。ちょっとびっくりしたのは、二つも盲窓があるということ。そして、植物を壁に這わせるための木の柵は、なんと壁にねじで直接留めてある。まさか、あの時代にネジがあったわけでもあるまいに。。昔は直接釘でも打ってたのだろうか?その荒々しいディテールにちょっと感動。



クラナッハハウス
クラナッハが最晩年住んだという家が、マルクト広場にたっている。結構、この広場は重要だったらしく、ヒットラーはワイマールに訪れた際には宿泊したというエレフェントというホテルもある。完全に見逃した。

バウハウス ワイマール

バウハウスの歴史はワイマールから、そしてファン・デ・ベルデの繊維学校から始まる。ベルリンで活躍していた彼がワイマールに呼ばれ、繊維学校を創設したのが1908年。それから精神的に消耗した彼は、戦争の勃発を端緒としてその座をグロピウスへと譲り、1919年、バウハウスが開校された。最初に紹介するのは、ファン・デ・ベルデの設計した繊維学校の校舎。これがグロピウスが学校を引き継いだ後も使われることとなる。ユーゲントシュティルを彷彿とさせる表現。東ドイツ時代には違った用途して使用され、窓なども改築されて、現在の姿の痕跡もとどめないほど改築されてしまったらしい。これはデッサウのバウハウスの校舎も同じ。それを復旧し、現在はユネスコの世界遺産になっている。





バウハウスの名の由来は、様々な職能が一つになって作り上げられた中世のカテドラルをモデルとしているかららしい。最初の学校のワッペンには、ハーゲンクロイツまで入っている。このマーク、実はインドで使われる吉祥の印らしい。知らなかった。その後、イッテン、シュレンマーそしてクレー、カンディンスキーなどを先生として集め、1923年の展覧会を契機としてバウハウスは世界的名声を得ていく。
グロピウスの校長室。このランプ、憎いなぁ。バウハウスの建物と、次に紹介するHaus am Hornという住宅は、バウハウスの学生が案内をしてくれた。とても理路整然と説明する、チャーミングな女性でした。ちなみに、グロピウスの座っていたという椅子、どうも問題があるらしい。1.重心が後ろにあるため倒れやすい。2.背もたれが背骨にあたって痛い。3.机と椅子の間の間隔が狭すぎて、しっかりと座れない。右側にある整理だなに手が届かない。
これらのことから、当時、本当に使われていたかどうか、ちょっと不明である、とのこと。


こちらは、グロピウスがコンペで勝ったという墓地に建つ、労働紛争で死亡した人たちへの碑。グロピウスって、これまでなんだか漠然と、理論でしか建築しない人だと思っていたけど、なかなかどうして。ミースの建築を見たときにも感じたけれど、デカルト的数学空間という説明はあっていないのではないか、と感じた。そんなものよりも、時代のエモーションを感じる。この造形力はどうしたものか。









校舎からちょっと離れた場所にある、ワイマールバウハウスでは唯一実現されたというホルンにある住宅。この住宅と、グロピウスの校長室は1923年の展覧会のために作られたそうな。そして、ここはデッサウにて実現されるマイスターハウスのような、先生たちの住宅として計画された。
中央の高くなっている部分に居間があり、諸室は居間を取り囲んでいる。居間に落ちて来る柔らかい光は、ズントーのコルンバの塔の部屋を彷彿とさせる。キッチンは、フランクフルト形式。諸室は本当に装飾のない部屋で、唯一窓枠が金属で塗装されている。モダン建築の萌芽がここにあるといってもいいほど、新しい建築の型を提案していると思った。こまかいことになるが、縦樋を目立たなくさせるために、描くファサードを樋の幅だけへこませ、樋は四角い断面をしている。良く考えてる。






ドイツ建築旅行 ザツバァイ

ケルンから約電車で一時間、satzvey(ザツバァイ)というところに建つ、ペーター・ズントーの礼拝所、Bruder Klaus Kapelleを見に行く。


Brunder Klaus Kapelle, Peter Zumtor
事前に主要ルートをざっと書いただけの地図を片手に進んだが、合っているかどうか、不安は募る。途中、菜の花の茎に止まる鳥を見て、驚いたりしながら、約1,5時間ほど歩いた。目的の村にたどり着くと、遠くに礼拝所がポツーンとたっているのが見える。そこから、更に500メートル以上の距離がある。
不幸にも、30人ぐらいのグループとかち合ってしまい、これは、やばいと思って到着そうそう礼拝堂の中を見物した。しばらくして外に出ると、このグループが中に入ってゆき、延々と30分ほど居座り続け、その間、到着した人たちは、外で待ちぼうけ。そのぐらい、この礼拝堂は小さい。



外は荒々しい土壁。中に入ると、これがすごい。丸太をコンクリートを打つときのせき板にしているので、荒々しい棒の表情がむき出しになっており、棒一本一本のネガがギリシャの柱の縦方向に走る溝のような表面をつくりだしている。溝には、ガラス球が埋め込まれて、ほのかな光を通す。天井はない。パンテオンのように、雨が入ってくる。床の表面は手でこねたような後が残る独特の表情をしている。



三角形の扉も独特で、回転する軸が下部にしかついておらず、上部にはない。だから、この独特な三角形の扉をはめることができたんだろう。ただし、この造形はちょっとシャープすぎる気はしたのだが。
写真は撮るな、と書いてあるが、写真を撮っていない人などいない、という不思議な空間だった。帰りも、何度もヒッチハイクしようかな、と考えたけど、結局同じ道を歩いた。



satzvey集落
集落という言葉のにつかわしい家の集まりが、駅の近くにある。電車の待ち時間を利用して、集落を歩いた。一本の幹線街路に沿って、ハーフティンバーのかわいらしい家々が軒を連ねる。ドイツの町家は、妻側を強調する場合が多いが、ここもその例にもれない。
それにしても、見事に手入れされている美しい街並みなので、何か、しっかりした産業なり、工業(?)でもあるのだろう。
この小さな集落には小さな城があり、そこは宿泊施設にもなっていて、そのすぐ隣に中世の騎士などの催し物をするテーマパークみたいになっている。これは、息子が大きくなった時にケルンに行く機会があれば、また足を延ばしたくなる場所だった。以下にリンクを貼っておく。
http://www.burgsatzvey.de/



ドイツ建築旅行 アーヘン

ケルンから足を伸ばして、一日アーヘンへ行ってきた。目的はもちろん、カール大帝のドーム。その他、Rudolf Schwarz、Hans van der Laanという、多分、日本ではあまり紹介されていない建築家の教会と修道院を見てきたのだけれど、両方とも、かなりよかった。

ドーム、カール大帝
神聖ローマ帝国の初代皇帝ともされることがあるカール大帝の築いたドーム。この八角形のドームは、当初、装飾はあまりなく、中心部の八角形の部分と入り口の塔部分しかなかったらしいが、次第に増築され、内部装飾も付け加えられ現在の豪華(?)な姿となった。中心部のドームが神聖ローマ帝国の皇帝が即位式を行った場所であり、昔日に思いを馳せ、興奮した。近くのしょぼい資料館には、カール大帝の胸像があり、その中にはカール大帝の頭蓋骨が納められているそうで、皇帝たちは即位のときにその頭蓋骨へキスをして、自己の正当性を顕示した。
東側のゴシック様式で増築されたコア部分にはカール大帝の亡骸が金色の棺の中に横たわっている。これは、本物だそうで、そのほかにもこの空間には宝物箱があるが、その中にはキリストの亡骸を包んだ布があるそうで、贋作だと証明できないので本物だ、と詭弁とも取れる説明で、その真作性を主張していた。
二階部分にはカール大帝の作らせた椅子があり、ドームを一望する場所に据え付けられているが、カール大帝は着座することはなかったらしい。
ドームの中央には、バルバロッサが寄贈した燭台リングが吊り下がっている。




































教会 Rudolf Schwarz
あんまり期待しないでいった割りに、なかなか良い教会だった。これは、空間を内包する箱である。この内包された空間は、豊穣の海とでもいおうか、空っぽなのに、豊穣である。そこに建築家の計算された才能を見た。建築家の名前は、Rudolf Schwarz、ミースと同時代の人だ。床と、側部に削り取られた空間が黒く、地を這い蹲り、水平性を強調し、そこから、じつに約20メートルもの高さの壁が立ち上がる。この壁は、空間を作り出す以外には、機能を持たない。











修道院 Vaals, Hans van der Laan
アーヘンから国境を越え、オランダへバスで15分くらい走ると、修道院はそこにある。親切なバスの運ちゃんが、普通だったら止まらない修道院の前で止まってくれて、テクテクと修道院へと伸びる道を約5分ほどかけて登る。
入り口がどこなのか、わからなかった。とりあえず人影を建物の中にみつけ、呼び鈴を鳴らす。管理人のおじいさんが顔をだし、自由に中を見ていいよ、という。見学者は僕一人。だーれもいない空間を歩き回った。
礼拝堂は上下二重になっていて、半地下のほの暗い礼拝堂と、地上の明るい礼拝堂がコントラストをなす。この建築には、本当に多大なインスピレーションを受けた。まず、その素材の使い方が素晴らしい。壁をなす素材はレンガ、コンクリート、そしてしの上を漆喰で塗られているのだが、この素材には構造的な意味と、ファサードの分節が役目として与えられ、結果として、非常に静謐な空間が立ち上がっている。
さらに個人書斎の荒々しい木材の使い方、藤マットとコンクリート、あらゆる素材のコンビネーションが実に素晴らしく思えた。彼の他の建築物も見に行きたい。
管理人のおじいさんは、近所に住んでいるらしく、彼の末の兄弟が僧侶としてこの修道院に住んでいる。今から地下の、この兄弟の工房へ行くから、興味があるんだったら一緒にくるかい?と聞かれ、二つ返事で付いていった。
工房では、兄弟の僧侶が、墓石に使う彫刻を彫りだしていて、どうだい、これ?と聞いてくる。僧侶として生き、工房で働く。シェーカー教徒みたいで、そんな人生もいいなぁ、と思った。そういえば、建築家のラァーンは僧侶であって、建築は主な職能ではなかった。
英語が僕は堪能ではなく、彼らも堪能ではないので、ドイツ語しゃべれますよ、といったら、そのほうがやはり簡単らしく、色々と詳しく説明してくれた。とはいえ、こんな国境近くでも、国を超えたら言葉も本当に変わるんだなぁと実感したのは、彼らのドイツ語もそんなに堪能ではなかったということ。
ラァーンにとってはプロポーションが非常に重要であったらしく、人間の重心はへそにあり、へそを中心としてプロポーションは5対8、つまりお黄金比に別れる。そして、ラァーンは独自のフォントも作ったけれど、その比率は、黄金比で作られている、ほら、ここに石に彫られたフォントがあるよ、と見せてくれた。

下に縦型の写真を載せているが、これは勉強部屋であり、ベンチのほかに、勉強机が置かれている。この写真が、今回、僕が旅行で撮った写真の中で一番のお気に入りだ。