2012年5月20日日曜日

ドイツ建築旅行 ワイマール

ワイマールでの目的は、ゲーテとシラー(?)、そしてバウハウス。結局、2日と半日間もこの街を散策することになった。この街は本当に小さい。その気になれば歩いて10分で端から端まで歩くことが出来る。そんな小さな町がここまで有名になったのは、言うまでもなく、ゲーテとシラー、ついでにヘルダーのおかげだろう。バッハ、リストもこの街に滞在していた。
現在、リストの名前を冠した音楽学校に学生が1000人、バウハウスに4000人で、合計5000人ほどの学生が住んでいる。
そして街の中央の街路は、絵画的に美しい。天候が悪く、青空のときに撮影しようと考えていたら、結局撮影する機会を逃してしまった。そして、ゲーテとバウハウスに夢中になりすぎて、シラーハウスは見学しなかった。また次回(?)。

ゲーテハウス、in Fraunplan
実はこの内部空間が素晴らしいのだが、撮影禁止なのでアップすることができない。こちらは、庭側から見たゲーテハウス。ここで、色々植物観察してたんだろうなぁ。ゲーテの小宇宙は広大で、本当にあらゆるものに興味を抱いていたひとなだなぁ、と実感した。色の研究、そして建築まで。今度、これを機会にまだ読んでいないイタリア旅行に手をつけたいと思う。そして、このゲーテハウスの内部空間も、イタリア旅行に強い影響を受けた空間の連続になっている。まず、オーバーディメンションな階段室。ゆったりとした階段を登ると、黄色い部屋にたどり着く。この南北軸に、部屋が3つ連なる。この軸は、表の広場に面した街路と、庭とを結ぶ。そしてこれよりもさらに有名なのが、直行する東西の軸だ。中央の扉を開け放つと、かの有名なパースペクティブが現れる。旅行の直前、偶然にもゲーテハウスの扉の高さが事務所内でテーマとなり、興味があって調べたのだが、1,95メートルぐらい。かなり、低い。昔の人は本当に小さかったんだなぁ。各部屋は独特の色で着色され、彫刻がいい按配で配置され、非常に魅力的だった。そういえば、ボールト屋根になっている黄色い部屋の隣のブリュッケン部屋という名前の部屋の中央には、ミュンヘンの王、ルートビッヒI世がゲーテ80歳の誕生日に寄贈した彫像が配置してあり、大理石の本物は、ミュンヘンのグリプトテークにあるらしいよ。
そういえば、今回の旅行ではすっかり古典の世界にも触れ、特にベルリンでだけれど、息子のこれからのテーマは、神話世界と決めた。

ゲーテ、ガーデンハウス
こちらは公園の中に建つ、ゲーテ、ガーデンハウス。これは有名らしいけど、個人的にはあんまり興味の持てる代物ではなかった。ゲーテはワイマールに招かれ、当初はここに数年間住んでいたそうだ。この家から、当時の領主であったカール・アウグストの仕事場兼別荘にも使っていたというローマハウスを遠望することができる。ちょっとびっくりしたのは、二つも盲窓があるということ。そして、植物を壁に這わせるための木の柵は、なんと壁にねじで直接留めてある。まさか、あの時代にネジがあったわけでもあるまいに。。昔は直接釘でも打ってたのだろうか?その荒々しいディテールにちょっと感動。



クラナッハハウス
クラナッハが最晩年住んだという家が、マルクト広場にたっている。結構、この広場は重要だったらしく、ヒットラーはワイマールに訪れた際には宿泊したというエレフェントというホテルもある。完全に見逃した。

バウハウス ワイマール

バウハウスの歴史はワイマールから、そしてファン・デ・ベルデの繊維学校から始まる。ベルリンで活躍していた彼がワイマールに呼ばれ、繊維学校を創設したのが1908年。それから精神的に消耗した彼は、戦争の勃発を端緒としてその座をグロピウスへと譲り、1919年、バウハウスが開校された。最初に紹介するのは、ファン・デ・ベルデの設計した繊維学校の校舎。これがグロピウスが学校を引き継いだ後も使われることとなる。ユーゲントシュティルを彷彿とさせる表現。東ドイツ時代には違った用途して使用され、窓なども改築されて、現在の姿の痕跡もとどめないほど改築されてしまったらしい。これはデッサウのバウハウスの校舎も同じ。それを復旧し、現在はユネスコの世界遺産になっている。





バウハウスの名の由来は、様々な職能が一つになって作り上げられた中世のカテドラルをモデルとしているかららしい。最初の学校のワッペンには、ハーゲンクロイツまで入っている。このマーク、実はインドで使われる吉祥の印らしい。知らなかった。その後、イッテン、シュレンマーそしてクレー、カンディンスキーなどを先生として集め、1923年の展覧会を契機としてバウハウスは世界的名声を得ていく。
グロピウスの校長室。このランプ、憎いなぁ。バウハウスの建物と、次に紹介するHaus am Hornという住宅は、バウハウスの学生が案内をしてくれた。とても理路整然と説明する、チャーミングな女性でした。ちなみに、グロピウスの座っていたという椅子、どうも問題があるらしい。1.重心が後ろにあるため倒れやすい。2.背もたれが背骨にあたって痛い。3.机と椅子の間の間隔が狭すぎて、しっかりと座れない。右側にある整理だなに手が届かない。
これらのことから、当時、本当に使われていたかどうか、ちょっと不明である、とのこと。


こちらは、グロピウスがコンペで勝ったという墓地に建つ、労働紛争で死亡した人たちへの碑。グロピウスって、これまでなんだか漠然と、理論でしか建築しない人だと思っていたけど、なかなかどうして。ミースの建築を見たときにも感じたけれど、デカルト的数学空間という説明はあっていないのではないか、と感じた。そんなものよりも、時代のエモーションを感じる。この造形力はどうしたものか。









校舎からちょっと離れた場所にある、ワイマールバウハウスでは唯一実現されたというホルンにある住宅。この住宅と、グロピウスの校長室は1923年の展覧会のために作られたそうな。そして、ここはデッサウにて実現されるマイスターハウスのような、先生たちの住宅として計画された。
中央の高くなっている部分に居間があり、諸室は居間を取り囲んでいる。居間に落ちて来る柔らかい光は、ズントーのコルンバの塔の部屋を彷彿とさせる。キッチンは、フランクフルト形式。諸室は本当に装飾のない部屋で、唯一窓枠が金属で塗装されている。モダン建築の萌芽がここにあるといってもいいほど、新しい建築の型を提案していると思った。こまかいことになるが、縦樋を目立たなくさせるために、描くファサードを樋の幅だけへこませ、樋は四角い断面をしている。良く考えてる。






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