Die Interieurs in der Rotunde 1898
部屋は、各人好みの好き屋としてあるべきだ。建築家が大きな顔をして、小物からはじまって、生活必需品の全てをデザインする必要などない。
これは、ヴァン・デ・ベルデやオットー・ワーグナーへの当て付けなのだろうか。新しく作られるものは古い装いをまとうべきではなく、全く新しく作られるべきだ、といった言説については前回参照した。しかし、ロースには彼らの、調度品全てをデザインするやり方は、やりすぎに見えたのだろうか。がんじがらめのデザインは窮屈だ。日によって人の気分も変わるだろう。だから、全てが同じデザインで統一されてしまったとしたら、人はその中で窒息してしまう。
この好き屋を、好き屋たらしめているものとは何か。それがスタイルだ。このスタイルは、各人がある場で何を選択するか、という嗜好から成り立つ。しかし建築的にいうならば、個人や家族の様式とでもいうようなものなのだろう。
gesammelte Schriften S.77
しかし、好き屋としてあっていいのは、あくまでも個室であって、一つの建物の中でも、公共空間に属する部分、応接室などは、その限りではない。 gesammelte Schriften S. 78
この言説によって、ロース的視点からは、一つの建物の中でも、明快な分割が生じてくる。これがつまり、いうところの、”空間計画”なのだろう。
部屋と部屋は、分節される。更には、内部空間と、ファサードも分節される。ロースの建築は分節だらけだ。ファサードの装飾も取り払われる。そして、ロース以降、ファサードまで分割されるに至ったのではないか、そんなことを以前にもブログに書いたことがある。ここまでの経緯からは、個人的には何かしら、悲劇を感じてしまう。
最後に、しかし、ワーグナーを持ち上げるテキストで、この文章は終わる。ワーグナーの天才の前では、シャッポを脱ぐしかあるまい、幾つかの造形の中に、職人的才能が垣間見えている。ワーグナーの大部分は、建築家としての気質に埋もれてしまっているが、芸術家気質は未だ健在だ、と。gesammelte Schriften S. 81
※ この文章は、ロトンダの中のインテリアとあるが、ハウゼナウアーのロトンダの中で開かれたインテリアの展覧会に寄せた文章なのだろうか???
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