2018年9月30日日曜日

オクトーバーフェスト 射的

先週からオクトーバーフェストが始まっている。世界最大のビール祭り。この期間のミュンヘンはとんでもなく活気づき、電車の中では様々な言語での大声や笑い声、歌などが聞こえてくる。
そんな中、先週の日曜日に僕達もオクトーバーフェストへ行ってきた。
目的は、射的。日本へ帰国した時から、射的が、我が家の子供達の間でブームになっているのだった。

たくさんのよっぱらいー。



そもそもの始まりは渋温泉。ここの昔ながらの射的場にすっかり魅了されてしまった息子達。明治村にも思いがけず射的場があり、果敢に挑戦。

ここで係りのおじさんの的確なアドバイスによってすっかり腕を上げた長男君は、どしどし景品をゲット。一方、ハンドスピナーが欲しくてたまらん次男君は、結局、標的に当てることができず、ゲームを終了。すると係りのおじさんが、サービスで、追加の一発を討たせてくれることになった。自信がない次男君は、この重大なミッションをパパに委嘱。なんと、パパは見事に命中させ、次男君はスピナーをゲットすることができたのだった。あの命中の瞬間は、さすがに心が躍ったなぁ。

そんなわけで、オクトーバーフェストに行こう!といったら、子供達は「僕たちは射的をする」と言い出した。というわけで会場についたら、早速、射的へゴー!
って、結構たくさんあるんだね、射的するところ、今まで全く気づかなかったけど。値段はほぼ同じで、10発で7ユーロぐらい。で、射的の的が陶器みたいなものでできていて、命中するとパリンと割れて飛び散る。危なくないのかしら??
写真の中で、壁ぎわに整然と並んでいる灰色の物が標的。

古今東西、景品にはろくなものがない。しかし、討つということに意味があるんだろう、ろくでもない景品でも、子供達にはとても素敵な戦果に見えるらしい。
次男君は銃が重過ぎるので、射的を断念。積み上げられた缶をボールで崩すゲームに挑戦。簡単そうに見えるが、これはこれで難しいらしい。

そのほか、ダーツで風船を割るゲームや、オイデ・ビーゼンの中にも射的がある。こちらは動いている船に命中すると、パタリと倒れる仕掛け。
ここでも、5発中、4発命中させた長男君。将来は狩猟でもやったらどうか、と思う。ちなみに、上の写真に写っている女の人、蠟人形ではなく、本物の人間なのでお間違いなく。

今年のオクトーバーフェストは、チェックが厳しく、リュックサック程度の大きさのバックも、会場に持ち込むことはできない。もし持ってきてしまった場合には、会場の外にあるバック預け所にお金を払って預かってもらわなければいけない。面倒くさいのでご注意を。

2018年9月20日木曜日

ドイツの日々2

長男君が成長しているのが、日々感じられる。今まで雑誌なんてほとんど目を通さなかったのに、今日はトラムの中でずっと読んでいた。おかげで酔ったらしく、早めに寝てしまった。

次男君は、学校に通い始めて、なにやら責任感というか、なにかしらが芽生えたように見える。学校に行く間にも、数字を数え始めて、めちゃくちゃながらも百以上の数字を数えようとしている。

妻は、新しい職場で働き始め、また、忙しい生活に戻った。

設備事務所の仕事がめちゃくちゃで、相変わらず大変である。ついにプロジェクトをマネージメントしている会社から脅しめいたメールが配信された。いわく、
「これ以上、プロジェクトが遅れるような事態があなたたちの仕事のせいで起こるようなら、遅延した際に生じるコストは全てあなたたちが請け負うことになるのよ!」
これが、朱文字で、しかも大文字フォントで、感嘆符が文末について、全プロジェクト関係者に配信されるのである。恐ろしい。。。。しかし、恐ろしいのは、この文書を書かせた設備事務所の仕事ともいえる。なにしろ、今まで一年以上、このプロジェクトに関わってきて、こんなメールが配信されたのは初めてである。

右寄政党の躍進が止まらないドイツである。原因の一つは、世情と移民のコントロールを鑑みず、道徳と過去への反省によって移民の受け入れを敢行したメルケル政権への反発である。これに、法を監視する庁のトップが、右寄政党へのシンパシーを表すような行動をしている、という証言が出てきてドイツは揺れに揺れている。
たしかに、世情を鑑みない政治への反発が生じるのは、政治的健全性を表しているのかもしれないが、それが外国人排斥、暴力へと結びつきやすいのがコワイ。しかし、右寄政党には、軍の関係者や、警察関係者が多いという話もよく耳にする。つまりは、移民が起こしていると思われる問題に一番触れやすい立場の人たちが、多いということなのだ。移民の起こした問題が、報道規制されている、という話もある。一体、何が起こっているんだろう。移民たちが問題を起こしまくっているのだとしたら、それも怖いし、右傾化していくドイツもコワイ。コワいことだらけじゃないか。。。

2018年9月16日日曜日

銀閣寺 同仁斎

お世話になった大徳寺、大心院さんを後にし、早朝、金閣寺を訪問、大徳寺で高桐院を見学しようと思ったが、工事中で参道を見ることさえできなかった。ドイツから息子を連れてきているので、ちょっとだけでもいいから、と頼んでも門前払いである。とても残念だった。あの参道を好きな人は多い。参道をちょっとぐらい覗けるようにしてくれないだろうか。何年間も見学できないのは、とても残念だ。

仕方ないので今宮神社で炙り餅を食べ、今井食堂で鯖の味噌煮を食べ、河合神社で方丈庵を見学し、銀閣寺へ向かう。


バスを降りて土産屋の並ぶ通りを抜けると銀閣寺の門がある。この門を右に折れると、銀閣寺道だ。僕はこの空間が、銀閣寺最大の見所だと思っている。東求堂が特別公開していない場合は特にそうだ。
金閣と銀閣を見て思ったが、ただそのオブジェクト然とした外観を見ても、面白くもなんともない。銀閣寺の場合は庭園を楽しむこともできるが、金閣の場合はとんでもなく観光客が多く、庭園を楽しむ余裕もない。庭園をかすめて通り過ぎるだけ、といったほうがいいかもしれない。

同仁斎は東求堂の北東隅にある。方丈庵が建てられてから約300年の年月が過ぎて、4畳半空間は、都市周辺の山麓まで迫ってきたといわけだ。



正直な話、同仁斎の良さがわからない。床が4畳半敷きの畳だからすごいシンメトリックで求心的なのに、壁に目を向けると柱、長押、障子の桟、違い棚など、あまりにもばらばらの線的要素がごちゃっと押し寄せるように並んでいる。東側の室内立面を北側の付け書院の上部にある枠の中にスケールを小さくして落とし込んだようにも見える(いっている意味、わかる??)。こうすることによって、北側への求心力が生まれているようにも思えるのだった。
ある意味、同仁斎は、空間というよりも線による室内の壁の分割が重要で、張り巡らされた線の上に義政の収集したという東山御物が陳列される。むしろ、その陳列のために、線が必要だったのではないか。そんな風にも思えてくる。
いずれにしろ、方丈庵と比べてみると、モバイル的な要素は消えた。壁面にまとわりつく線が、内部空間をこの東山の地に縛り付けられているように見える。そして、同仁斎においては、まだ建築は空間へと向かわず、壁の造形にとどまっている様に思える。
それにしても、なぜ、同仁斎の意匠の創意工夫は北側壁面に集中しているのだろう?


銀閣寺まで、駆け足で京都の町を通り抜けたので、僕と息子君はとても疲れていた。もちろん、天気のせいもある。そこで、バスで一路、西へ向かい、「虎や」へ直行した。甘いものが食べたかった。
京都「虎や」は内藤廣先生の設計した建物だ。なんと、自分の故郷にも近い御殿場にも内藤先生の設計された「虎や」の建物が建っている。そこに、カキ氷を食べにいった。

外壁のタイルや、内部の屋根の造形、屋根は敷地の上にフワっと降りてきたように外部と内部空間をゆるやかに結び付けている、それでいて片側のエントランス方向と、反対側の庭方向には、全く性格の異なる空間が並存している。





もちろん、カキ氷も、いいお値段するのだったが、とんでもなくうまい。僕達の食べた宇治抹茶カキ氷は1100円くらいだった。知人いわく、最近の日本のカキ氷は頭がキーンとしないらしい。そういえば、このカキ氷食べてるときも、頭キーンしなかったな。

2018年9月15日土曜日

河合神社の方丈庵

京都でしたかったこと。その内の一つが、茶室の歴史的な流れを見ておきたいということだった。まず、河合神社に再現されているという方丈庵を訪問する。銀閣寺へ行き、同仁斎を見る。そして翌日には山崎へゆき、待庵を見学し、聴竹居を見学する。これで、すごいおおまかに、茶室の流れの大きなポイントを抑えられるかもしれない、そう思った。

方丈庵を訪れた日は雨が降ったり晴れたりの生憎の天気。前日の夜は台風が京都上空を通過していた。ありえないほど湿度が高く、京都全体がサウナのようだった。

下賀茂神社の場所は一様わかっているつもりだったけど、参道がどう通っているのかわからない。この参道問題は熱田神宮でも経験した。熱田神宮では、神宮前駅で降りればどうにかなるだろう、という軽い気持ちで出かけた。改札を出ると、「神宮はこちら」という表示があるので、進むべき方向はすぐわかる。ところが駅の構内から出てこんもり茂った神宮の森を前にしても、さて、メインの参道がどこにあるのかわからないのだった。森をグルーと回ればいずれ入口に着くだろうという適当さで歩いてみたが、どこまでいっても入口が見つからない。結局全神宮外周の約三分の四もぐるりと回って、しかも正面からではなく側面から参道に入ってしまうという失敗をした。
そして、下賀茂神社でも、同じような失敗をしてしまったのだった。高野川と鴨川は北から流れてきて下賀茂神社のある場所で合流する。この地点は、ご存知のように逆三角形の頂点みたいに見える特徴的な地形をしている。だから、この頂点に辿りつけば下賀茂神社まで迷うことなく着くだろうな、と考えていたら、さにあらず。頂点の岐路で左に進路をとってしまい(正解は右側だった)、メイン参道を通過することなく、参道の脇から河合神社境内に入ることになってしまった。



方丈庵は境内の片側で、わりとドーンと建っている。屋根のこけらの上に苔が生えていていい感じ。また、方丈という平面的狭さだけでなく、庵自体の高さもかなり低い。軒の飛び出し、突き上げ窓など、建物から飛び出しているエレメントがまるで翼のようで、退屈な造形ではない。壁を構成する板も、舞良板や網代板、そして桟の間隔も一様ではなく変化に富んでいて面白い。これは意匠的にねらったのではなく、おそらく適当に作ったからバリエーションに富んだ意匠になったんだろうと思う。



平面的には、中央に炉がどーんとあり、その周りを三分割するように、趣味のスペース、勉強スペース、寝るスペースがある。庵自体が自然の中にポツネンと存在していたであろうことから、窓は大きく外に向かって開いているが、室内の床が縁側に向かって開いておらず、縁側にはかならず壁が立っている。僕なんか、縁側と室内の床は視覚的にも空間的にも遮るものなく造ろうとしてしまうんだけど、周りに自然がある、というのが日常ならば、自然から居住空間を仕切ろうとするんだろうな。それにしても、蚊にはどうやって対処していたんだろう。おそらく刺されまくっていたんだろうなぁ、長明さんは。

方丈庵は分解して、また組み立てるということを前提としている仮設住宅的要素が強い。体を守るシェルターとして、衣服の次に住居というものがあるとすれば、方丈庵はかなり衣服側的要素の強い構築物だといえる。
この後、この小空間の延長上に茶室というものがあるのならば、それは自然の中から都市の中に移動していくわけで、それと同時に衣服というよりも、空間というものがより鮮明に強調されていったような気がしてならない。それは、庵の中に発生した方丈という空間がより内側に向かい、空間そのものが自立していく過程なのかもしれない。

2018年9月11日火曜日

地方活性化

地方の活性化という話題を、日本に帰省しているときに多く耳にした。
さて、その活性化に何か貢献することはできないものか、なにかビジネスとして、建築家として、ドイツ語を使って、できることはないか。
探してみても、なーんもなさそう。あるのは、ボランティア募集とか、ただで人を使おうとする虫のいい募集ばかり。ボランティアなんかで、地方は活性化するのかねぇ?活性化させるには、やっぱビジネスもそこで発生しないことにはどうしようもないんじゃないの?って思う。行政は、なにかしら雇用が生まれるような計画に挑んで欲しいと願う。

ドイツの日々1

今日、次男君が小学校に入学した。長男君はレアルシューレに行っているので、ママと次男君と三人で入学式、のようなものへ向かう。シュールトゥッテというコーン型の、入学祝を詰め込んだでっかい筒を抱えて入学式へ向かうのが伝統なので、息子君も自分の身長よりちょっと小さいぐらいの筒を抱えて学校へ向かった。
途中、ディエンドルとレダーホーゼを着た一家に遭遇、彼らの中心にいる女の子もディエンドルを着ているので、すぐに新一年生だとわかる。
ドイツの入学式は、日本の入学式のように派手ではなく、しかもこの季節は桜など咲いているはずもないので、どちらかというと地味。
シュールトゥッテにいれるものは先週の土曜日にほぼ一日かけて探し回ったが、次男君はあんまり喜んでいないみたい。。
帰ってきて、「今日はどうだった?」と聞くと、「おもしろかった」という。幼稚園からの友達は一人もいないが、ホルトという午後から面倒を見てくれる施設で新しくできた友達がなんと四人もクラスメートになったので、これはラッキーというべきか。
同級生のスロバキア人一家とも仲良くなったし、長男の時と比べて、いい感じの家族が多い。それにしても、ドイツ人のごとくドイツ語をしゃべるので、最初はスロバキア人だとは気づかなかった。

しかし、ドイツに帰ってきてから、なんだか極右勢力の台頭と、移民問題がとても激しく議論されていることに驚く。ケムニッツという街で、ドイツ人が移民に殺されたことから、パレードが行われ、そこに極右勢力や政党である「ドイツのための選択肢(この訳、なんか違和感あるなぁ)」が多く参加したことも大々的にニュースとして取り上げられている。一様、いいたいことはわかる、政策なしの移民受け入れのおかげで世情が不安定になった、それは自分も肌で感じる。でも、それが暴力や外人排斥に結びついていることがコワイ。ユダヤ人排斥も、水晶の夜を境として激化していった。ドイツ人の良心と反省がどう、この情況を打開していくのか、それとも打開できないのか。世界中が注目しているだろう。

ZDFで、三十年戦争のドキュメントを見る。教科書に載っているような、皇帝や貴族からの視線ではなく、その当時生きていた兵士や職人がつけていた日記をもとに構成されたドキュメント。自分がこんな不安定な情況を生きなければいけない立場だったら、そういう情況に投げ込まれてしまったとしたら。。。感情移入しやすいので、見ていてつらい。。

躯体に開ける設備の管を通すためのダクト寸法を、もうかれこれ半年以上チェックしたり、設備屋さんと打ち合わせしたりしているが、担当している二つの建物のうち、一つの建物でこの仕事が終わりそう。先週からランドスケープアーキテクトと一つのダクトをめぐって攻防を繰り広げているが、担当者のランドスケープアーキテクトの仕事が遅い。。電話しても、いつも、お、この人、眠いのかなぁ、なんて声で対応してくれる。今回も、電話で説明してくれないと理解できない図面を何枚か送信してきて、ここに穴を開けてくれ、という。いや、最初は穴を開けて欲しいということさえ書いていなくて、送られてきた図面を前に、これで自分は何をしろっちゅうの?と途方にくれたんだった。その図面を読み込むと、配管の寸法は書いてあるが、壁にあける穴の寸法は書いていない。壁の穴の寸法を教えてくれ、と頼むと、それは設備屋さんに聞いてみないとわからない、という。で、設備屋さんに聞いてもらうと、設備屋さんは、それはすでにダクト計画図に記入してあるという。で、ランドスケープアーキテクトと設備屋さんのメールのやりとりを転送してもらいチェックしてみると、ランドスケープアーキテクトのダクトの位置と設備屋さんのダクトの位置が一致しない。どうすんの?とランドスケープアーキテクトに聞いてみても、いつまでたっても設備屋さんと連絡がつかない、とか、設備屋さんのダクトの位置に合わせるには私の計画した配管の位置をどうにかかんとか、と独り言のように電話口でぶつぶついっている。。。
いやいやいやいや、設備屋さんに一言、「あなたの計画したダクトの位置は私があなたに伝えた配管の位置と一致しないから、ダクトの位置を適正な位置にずらして計画し直しなさい!」って伝えれば済むことなのに。。。お願いだから、わけのわからない逡巡に、電話口で付き合わせないで欲しいものだ、と願う今日この頃。

ふるさと納税で、何故か、わが故郷が総務省通知に従わない自治体としてリストアップされている。全国で、たった12市町村しかないのに、その内の一つ! なんか知らないけど、ガッツを感じる。。

2018年9月8日土曜日

お城の曲輪

お城の曲輪について書こうと思って、困っている。写真でも載せようと思って、アルバムを見てみたが、あまりにも曲輪周辺が面白くなかったのか、写真がない。
今、思い出してみると、各スポットに説明の立て札がたっていたが、しかし、その場所がお城全体の中でどのような機能をもっていたのか、という全体を俯瞰できるような説明はなかった。
城では、本丸から序列的に二の曲輪、三の曲輪などに連なっており、各場所ごとに意味がある。俯瞰的にみることができないと、城の構造を全体的に捉えることができなくなり、それらが頭のなかで総合的にむすびつけられることなく、断片の記憶の寄せ集めになるため、城そのものの醍醐味が薄れてしまう。
付け加えて言えば、城は単体であるものでもない。山城などとネットワークを形成している。今回、日本を訪れて感じたのは、この城のネットワークが、城のある地域でまったく組織化されていないなぁ、ということだった。もっと、各地域によって城を管理するような組織を結成し、その組織を通じて観光化させれば城自体も美しく保たれるし、観光する側としても理解がしやすくなるのではないだろうか。例えば、ドイツのバイエルン地方では城を管理する部署が行政の一機関として機能していて、城の保存状態もよくオウディオガイドなども充実していて、城の醍醐味を体感することができる。オウディオガイドなんて入館料の中にも含まれているし、それを通じて歴史やそこで起こった出来事なんかも詳細に知ることができる。
もっといえば、数年前に比べて、ずいぶんアジアからの観光客が多いということに気づいた。彼らにしてみれば日本の歴史なんて外国の歴史だから、よっぽど興味がないと事前に学習しているなんてことはないだろう。だからこそ、せめて中国語と韓国語でのオウディオガイドぐらいはどこに行ってもあるぐらいの努力をして、アジアからの観光客に対するサービスをより充実させて欲しい。そうすればよりリピーターは増えるだろう。そんなこと、いまさら自分が言わなくてもわかっていらっしゃるだろうから、より日本を理解してもらうための最低限のサービス、各国言語(特にアジア圏)のオーディオガイドは完備して欲しいと思った。

ずいぶん横道に逸れたが、曲輪である。多くの城で、この部分がただの空き地としてあった。こういった空き地を、定期的に演奏会やフェスティバルの会場として使ったら面白いんじゃないのか、と思う。

あと、小田原城や大阪城の惣構。ドイツ城壁都市が大好きな自分としては、惣構についてもっと知りたかったし、できれば見たい気持ちもあった。小田原城などではその気になれば惣構跡は多く残っているのでその気になれば見学することもできるのだろう。しかし、現地でそういった都市を囲繞した構造物の見学案内のようなものを目にすることはなかった。例えば、ニュルンベルクである。この街はまだ都市壁が残っているし比較の対象にはならないが、あえて言わせていただければ、ニュルンベルクでは都市壁だけを巡ることができるガイドブックを購入することができる。残念ながら日本語版はないが、進撃の巨人でも描かれたりする、都市を囲繞する構造物の存在、それが日本にも存在したのだから、それをもうちょっと観光化するか、少なくともガイドブックとしてまとめてもらえると、歴史ある都市の様子をよりビジュアル化できて面白くなると思う。

お城でおもしろかったのは、何と言っても天守閣の展示だ。特に小田原城は展示内容も現代的で見ごたえがあった。あんなに面白い展示はドイツでも見ることができない。今まで僕がめぐった諸都市と比較しても、トップレベルの展示内容だろう。息子も小田原城は面白かったと言っていた。
結論として、本丸の展示だけでなく、その周辺も観光資材として活用するべきではないのか、というのが僕が日本の城を幾つか見て感じたことだった。中心だけがぎっしり詰まっていて周辺がすっからかんな、この感じ。どこか日本的だな、と思えるが、いかがなものか。

そういえば、息子は小田原城で金属製の手裏剣をお土産として買った。相当気に入っていて、ことあるごとに見せびらかしていた。おかげで飛行機の中に手荷物として持ち込もうとしてしまい、搭乗手続きの際に没収されてしまった。みなさん、手裏剣は一様、忍者の武器なので、いくらお土産とはいえ手荷物として飛行機に持ち込むことはできないのでお忘れなく。

2018年9月2日日曜日

ドイツ在住の設計士として何ができるのか

前回、日本に帰省したときにも思ったことだが、ドイツ在住の設計士として、自分は日本に対して何ができるのだろうか、ということをずっと考えている。

特に、自分の出身地は御殿場市の隣の小山町というところ。妻の出身が豊川市。だから、特に日本へ一時帰省すると、箱根を越えた三島辺りから名古屋手前の地域を行ったりきたりする。東海道でいうのならば、三島宿から宮宿の間あたりだ。

この区間は、何にもないように一見見えるが、よーく見てみると意外に面白かったりする。歴史的にも東は頼朝の流刑時代を過ごした韮山や、小田原に進出する前の北条早雲の史跡が多くあり、西は徳川家康関連の史跡がゴソゴソ転がっている。また、戦国時代に歴史を左右したような名勝負が繰り広げられてきた地域でもある。桶狭間、長篠、小牧・長久手、三方ヶ原など、おそらく行ったら何もないけれど、そこでは苛烈な戦が繰り広げられたはずなのだ。
そして観光的にも、東は箱根、伊豆を中心として温泉や海水浴を楽しむことができるし、西には陶器産業やそれこそ歴史の旧跡が目白押しだ。

今、静岡県の産業特性に関するレポートを見ているが、静岡県は大きく、地理的条件から三つの地域に分かれるらしい。それらは富士川、大井川を境界として分かれるそうだ。
東側は、伊豆、箱根の観光資源、製紙・化学工業、医療機器・医薬品産業。
中部は家具などの伝統産業、港が多いので漁業と水産加工業とお茶の生産。
西部は自動車、楽器の生産工業と第一次産業。
なんか改めて確認すると、すげー、バラエティーに富んでいるな。

なんか、工場とそれに付随する従業員の空間を改善する計画や、東海道という横に長い幹線を利用しての道の駅施設の充実を図れば、かなり面白いものができそうな気もする。問題は、そういったものに、ドイツからどうやってコミットしていくことができるのか。おそらくコミットすることは難しいが、これからもその可能性について考え続けていきたい。

日本の城はすっからかん

大阪城で櫓が特別公開されていた。それら櫓は主に枡形を形成するもので、石垣の上に見事に建てられている。しかし、その中身はがらんどうだった。振り返ってみると、天守閣の中は博物館的に利用されているけど、その他の建物はほとんど休憩所かお土産やさんとして利用されていた記憶がある。
ヨーロッパの城郭都市はどうなってたかな。そもそも、都市の内部は人々が生活しているから、それこそ活気が違う。
ミュンヘンの旧市街の端にある宮殿はどうなってるか。レストランとか、ミュージックホールが入っているなぁ。特に、このレストランはワインが飲めて、これが美味。
そもそも、かつて城だった部分は、都市の中でも特異点であることは間違いない。しかも眺望がいいと来ている。こういった特性を生かして、ホテルとか、レストランにしてくれれば、かなりいいものができるに違いない。ここに日本特有のおしゃれなカフェとか、とってもやる気のあるレストランが入ったらすごいいい空間になるのになぁ、と思う。だって、日本のサービス産業って本当に世界と比較してもかなりレベルが高い、と思う。それが観光産業と結びついたら、きっともっと活気あふれた空間が出現するに違いない。



そもそも、日本の城は、駅からも延々と歩き、その奥には今でもお殿様がすんでいるんかいな、という感覚を覚えるほど、周辺と隔絶されている空間だった。そんなのが街の中心にドーンてあるんだからなぁ。そら、その周りをグルグル回る交通網も発達するわけだよなぁ。

日本に帰省してきた

日本は暑かった。

城をたくさん見た。興国寺城跡。小田原城。大阪城。名古屋城。
それらを見ることによって、ドイツの城をより鮮明に比較対照できるかもしれないと思ったから。
ドイツの城というよりも、ドイツの城郭都市をより鮮明に理解できるかもしれない、と思ったから。
「進撃の巨人」も最新巻まで読んできた。

日本の城は、しかし、あまりにも抽象的というか、都市的コンテキストから切り離されて存在している、ように見えた。
小田原城とか、大阪城とか、城を訪問しただけでは惣構えの実態がまったくわからない。
ドイツの城郭都市でそんなことはあっただろうか?むしろ惣構がはっきりしていて、城的部分のほうが目立たない。

逆に興国寺城跡は自然の中に埋もれている感じであり、しかし土塁の構造が明確なので、面白かった。天主の裏側の空堀や土塁は草に覆われ、空堀の向こうに畑が広がっていた。つわものどもが夢のあとに茂れる夏草。そしてそこは昆虫王国。巨大バッタを天主跡の高台から眼下へ飛ばしたこと。蝶が舞い、玉虫が現れたこと。木立にはクワガタ。
この夏のあの場所は、しかし、戦国の世が始まりを告げてからおおよそ500年後のことだったのだ。