

翌日、お世話になったHagenberg氏に駅まで送ってもらい、ウィーンへ出発した。
結局、ウィーンには24日から31日までの8日間いたことになるが、これからユーゲントシュティル、ワーグナー、ゼセッションなどについて書いていく前に、最初に一気にその印象を総括してみようと思う。
ウィーンは、古くはローマの植民地としてその歴史を始めている。その後、いくつもの歴史的大事件がこの地で発生し、それらはハプスブルグ家の歴史、芸術の歴史と重なり合って重厚な様相を呈している。
地図を見ると、比較的容易に、ローマ時代の痕跡を読み取ることが出来、それらは、現在のGrabenなどという街路の名前に歴史的性格を読み取ることが出来る。ちなみに、Grabenというのはカツテ都市を囲っていた環濠のことをいい、都市の拡張に伴いその地が埋め立てられて名前に名残が残った。その他にもなかなかしゃれた名前の通りがあって、例えば、Himmelpfortgasse。 Himmelというのは空。Pfortというのは門。つまり「空の門通り」。空関連でいくと、Stoss im Hommelという街路があり、こちらは「空にぶつかる通り」(あるいは空中衝突か)。
街の中心にはハプスブルグ家以前の支配者バーベンブルク家の宮殿があった広場やステファンドーム、そして南西の旧市街環状道路部分にはハプスブルグ家の宮殿群がドーンとあり、ゼンパーやハンゼンなどの古典主義、歴史主義建築がダーと外に伸びている広場の中心に、マリア・テレジアの騎馬像、そしてその外側にミュージアム地区がある。とにかく、この宮殿を中心として外側だけでなく左右に伸びる環状道路上は、壮麗な建築物のオンパレード。その中に、ゼセッション館や、環状道路計画を提案し幾つかは実行されたワーグナーの建築物が立っている。旧市街の反対側はドナウに接しており、水辺空間は予想外に近づきやすく、対岸には高層ビル群が広がる。
旧市街環状線から外側へはぎっしりと装飾に彩られたローハウスが埋め尽くし、ここから郊外への継ぎ目部分に赤いウィーンと名づけられた一連の労働者用住宅群が点在している。その間を彩るのは、ハプスブルグの離宮、シェーンブルンとベルベデーレ。
さらに郊外に行くと、ザハ・ハディドやコープ・ヒメルブラウなどの現代建築の傑作も見ることが出来る。
その外側は緩やかな丘になっていて、ブドウ畑が広がっており、ワインの製造が盛んなんだそうだ。僕も一つ、カールマルクスホーフという労働者用住宅群の傑作といわれている建物を見に行ったときに現地で取れるぶどうから作られたワインをいただくことが出来るワイン酒場、ホイリガーと一般にいうらしいが、に行った。
その日は一日暑かったので、ウェイターのおっちゃんにビールちょうだい、って言ったら、そんなもんはねぇよ、と言われて、びびった。どうやらワイン酒場にビールはおいていないらしい。ミュンヘン人にとってこれは相当な打撃ではなかろうか。少なくとも、エセミュンヘン人である僕にとっては大変なショックだった。ところでこの酒場の雰囲気はバイエルン地方のビアガルテンに非常に似ていて、ビアガルテンにはお決まりの長机と長椅子があるように、ホイリガーにもホイリガー特有の長机と長椅子があるのだった。昼と打って変わって夕方は寒く、上着を持っていなかったので、ワインにとんかつ(シュニッツェルという要はとんかつ)を食してさっさと退散する。
ウィーンの芸術といえば建築に限らず、音楽、絵画なども有名だけど、今回は建築に特化した旅行だったために音楽については全くなにもしなかった。といっても夏の間中、市役所前の広場でオペラが上映されていて、ただで見ることが出来たんだけど。
次回はオペラでも見に行きたいものだ。絵画といえば、即浮かぶのは、クリムトとシーレ。今回の印象では、天才的感覚で描くシーレと、どちらかというとインテレクチュアルにテクニックで攻めるクリムト、という印象を受けた。それらについてはいずれまた後ほど詳述したいと思う。
食についてはあんまり期待していなくて、ところがどっこいなかなか美味しい料理にありつくこともあったのだけど、カフェめぐりは幾つかした。旅の同伴者、ライアン君は貧乏学生なので、有名どころを巡る僕と一緒にカフェすることはなかっただが、カフェの名前を関したカフェはクリームがポンと乗せられていて、めちゃくちゃ美味しかった、そしていい値段。彼がいくらぐらいだ?と聞くので約5ユーロくらいと答えると、ひえぇタケェ!などとビビッている。そして俺はメレンゲばっかり注文してるぜ、とすっかりウィーンっ子気取りなのだった。ケーキはあんまり食べなかったんだけど、うーん、特に記述する必要もないかな、と思える感じだった。嫁さんのつくるケーキがうますぎるのか???
とにかく、とても綺麗で、常に何かが起こっている感じで、ミュンヘンに比べて密度も高く、本当に機会があったら移住したくなる街だった。やっぱ、首都はいい。そして何よりもカイザーの住んでいた場所は、明らかに気合の入り方が違う。
0 件のコメント:
コメントを投稿