2012年12月22日土曜日

ミュンヘン学生寮 途中経過

現在、日本のアトリエ・バウワウ(アトリエ・ワン)と計画を進めている、ミュンヘンに建つ学生寮について、途中経過を報告したい。

この計画ではバウワウが基本設計を行い、私たちの事務所が実施設計を請け負っている。
施主は、シュドハウスバウという、ミュンヘンを中心に、不動産経営をしている会社。建物の企画から基本計画書、設計管理に、賃貸からの利益を一手におこなう、しかも家族経営の会社である。

http://www.suedhausbau.de/index.php?id=454
上記URLにプロジェクトの紹介がされているのでご参照いただきたい。


この建物では、ドイツ語ではエルカーという、出窓が設計のアクセントとなっている。
また、パッシブハウスの基準を満たすため、16センチのコンクリートに24センチの断熱材が貼り付けられている。

_____________________

私は現在、中庭に面する基礎部分の詳細図を描いています。地下が駐車場になっているので、中庭の防水、植栽のための土かぶり厚さ、ガラスファサードなど、が現在のテーマです。

先日は、屋上道路側出窓の確認申請図面における認識のずれをミュンヘンの建築庁に指摘され、配置図を再度作成し、提出してきました。さて、どうなることやら。
ミュンヘンでは道路斜線や北側、敷地斜線に相当するセットバック面積、という法規があるのですが、そのコメントの多さから、全てを把握するのは法律家でも難しい、とは所長の談で、なるほど、法規のページ数だけでもゆうに50ページほどあります。しかし、改めて、この法規を十分に理解していないと、後々面倒なことになるな、ということを認識させられました。

この学生住宅、ミュンヘン・ドイツの新聞メディアでもたびたび取り上げられています。
あるメディアでは、この計画が地域委員会で大いに歓迎されたことが取り上げられました。この建物には、キャラクターがあり、将来的に地域を演出するような顔となるだろう、と。

ところで、メディアも結構いい加減なもので、色々間違ったことを書き立てます。スーパーマーケットが地下にあるとか、学生部屋の数が違うとか、家賃が公表されたものと違うとか。
家賃ということでいえば、あるメディアは、この建物が立地する地域のジェントリフィケーションの先駆けになってしまうのではないか、と書きました。
CSUのある議員は、この建物はこの地域の価値をあげるだろう、と賛辞を述べたのですが、そこに噛み付いたのです。何人かのSPDの議員は、この建物には子供の遊ぶ場所がない、スーパーの窓が大きすぎる、そしてなんといっても、家賃が高く、この地域のジェントリフィケーションの先駆けになる、と警告します。そもそも党によってこのように意見が統制されていることがちょっと気に食わないのですが、この意見を受けて、シュド・ハウス・バウは、この家賃はミュンヘンの学生寮の相場からは大きく外れてはいない、と反論しています。
そもそも、学生を引き入れる計画に物申す意見としてジェントリフィケーションというのは妥当なものなのかどうか。私の感想では、駒場、早稲田や、ソルボンヌの立地するカルティエ・ラタンなどは、賑わいを見せこそすれ、学生の街となることによるジェントリフィケーションてあんまりイメージが湧かないのですがどうなのでしょうか。そもそも、学生って裕福な人もいるでしょうが、基本、貧乏だと思うのですが。。。。
これからどうなっていくのでしょう。また進展があり次第、報告したいと思います。

JA 最新号、88号 year bookにて、事務所の所長、ハンネス・レスラー氏がエッセイを執筆しました。自分は翻訳を担当し、非常に大変な作業でしたが、最終的にはなかなか面白いものになったと思います。是非、ご覧ください。

http://www.japan-architect.co.jp/jp/new/book.php?book=JA


みなさん、よいクリスマスをお過ごしください。

2012年12月19日水曜日

ビッグプロジェクトの挫折 ハンブルグ・シュツトガルト・ベルリン

南ドイツ新聞より抜粋 
「世界中で笑われている」

引き続き、ミュンヘン、持続可能都市への挑戦を翻訳していきたいと考えているが、今日は南ドイツ新聞で興味深い記事を見つけたので、そのことについて書いていきたい。

みなさんもご存知の、ハンブルグに建設中のヘルツォーグ&ド・ムーロンのエルベ・フィルハーモニー、フライ・オットーとインゲンフォーファーの新駅計画、シュツットガルト21、そしてベルリンの空港改築計画。個々の計画についての背景を、実務と論文執筆に追われていたために把握していないが、翻訳・コメントしていきたい。

記事は、ドイツにおけるビックプロジェクトのコストが跳ね上がり、それに比べてロンドンオリンピック計画のコストが積算段階よりも低かったため、これを見本として今後の入札方法を変えていくべきだ、という主旨である。

http://www.sueddeutsche.de/wirtschaft/baustelle-xxl-bauverband-fordert-radikalen-systemwechsel-fuer-grossprojekte-1.1552457

________________________

これらビッグプロジェクトは、コストが明確になるに従って跳ね上がり、大問題となっている。ハンブルグ、エルベフィルハーモニーは、7700万ユーロの予算が5.75億ユーロと7倍近く跳ね上がり、ベルリン空港では25億ユーロが40億ユーロ、シュツットガルト21では49億マルクが60億ユーロ。
市民は、税金を使ったこれらのプロジェクトのコストと建設期限が守られていないことから、抗議行動を起すに至った。一方で建設関係者は、システムの変更と、法律の変更が必要なのではないか、と考えている。ドイツ建設協会の会長ミヒャエル・クニッパー氏は、「世界中が私たちのことを笑っている」と警告する。

彼によると、ドイツの70のビッグプロジェクト、総計すると480億ユーロもの計画がストップされた。何故なら、不透明で、市民をなおざりにした計画のためだ。問題は、公共による建設進行システムの中にある。行政は、終わりなき議論が発生することを恐れて、コストを正確にはじき出すことをためらう傾向がある。

一般的なプロセスは、こうだ。まず、大臣が、大プロジェクトを提案する。そして完成日時が決定され、役人は大まかな契約書を作成する。それに基づき入札が行われ、一番安く入札した業者が落札する。この時点では、様々なことが明確には決定していない。例えば、トンネルはどのように作られるのか、コンクリートの厚さ、などなど。そして建設会社は、追加分を計上する。もし、このような業者のやり口が当初からわかっていたのなら、政治家は計画進行にストップをかけるだろう、例えば、ベルリン空港計画のように。もしくは、受注者と、コストに関しての争いが生じるだろう、例えば、シュツットガルトのように。
だが、多くの建設関係者にとって、最終的に追加コストが発生するのはわかりきっていることであるし、それを期待してもいる。そして、ここに問題がある。

このようにして起こったシュツットガルト21の計画ストップはビッグプロジェクト全般に悪い印象を与えた。その結果、次々とプロジェクトがストップする現象が起きている。
建設協会はこの現象に危惧を感じ、対策が必要であると考えている。計画は、市民、企業、行政が一体となって遂行されなければならない。その前提として、公共建築では入札制度などの、プロセスの透明化が求められる。

そのモデルとして、ロンドンのオリンピック計画が挙げられる。2012年、ロンドンでのオリンピックが開催される前に、オリンピック委員会は、非常に詳細な計画書を作成した。それは14000項目にも及ぶ。
77億円が予算として計上された。これらは、関係諸者とのやりとりを経て、月々新に計算され直された。そして、その詳細は全て、インターネット上で公開されている。その結果、ロンドン市民の10人に9人が、プロジェクトに理解を示した。そして計画は期限通りに建設され、なおかつ、計算よりも数千万ユーロの出費が抑えられた。

このように、計画を進めるべきだ。そのためには、建設会社側に、豊富な経験と、知識が求められる。発注者は幾つかの建設会社を選定し、エンジニアと協働して、コストの詳細を突き詰めていく必要である。

その結果、計上されたコストと、リスクは公開され、判断材料となる。しかし、現在のシステムでは、これを実現するのは難しい。だからこそ、一番安く入札し、経済的に成り立っていないような業者を選定する入札制度を、変えるべきなのだ。

________________________

ちなみに、シュツットガルト21計画とは、テンション構造などで非常に有名なフライ・オットーと建築家、インゲンホーフェンが手を組んだ、構造的に非常に美しい計画です。構造と採光の融合、駅の屋根を使った屋上庭園は市民に開放され、パウル・ボナーツ設計の旧駅舎と反対側に位置する公園を結びつけます。様々なものがいくつもの機能を付加され、そこに建築物が立ち上がる。いかにも金のかかりそうなデザインですが、しかし、非常に説得力のある計画でもあります。実現されたら、絶対に見に行きたい建物です。



エルベ・フィルハーモニーも、王冠のようなガラスファサードの上層部とずっしりとした基壇部がエルベの水面からそそり立っている、有無をいわさずかっこいい建築です。このガラスのファサードパネルが気合のはいった造形をしていて、縦横に使用されている曲面ガラスも非常にコストが掛かっていることが一目瞭然です。これも建設終了したら、まだいったことのないハンブルグを訪問がてら絶対に見たい建物です。


今回、このブログでこの記事を取り上げた理由は、これらの計画が、今なぜストップしているのかを明確にするため、そして、より市民に開かれ、そして市民の参加することのできるような計画プロセス確立に向けての動きが芽生えている、と感じたからです。それらは、以前にも、そして近日中にもまた翻訳を再開したい、ミュンヘンの、「持続可能性都市への挑戦」で、また、仙台にて復興に向けて尽力されている南部繁樹氏の記事を拝読させていただいたときにも非常に強く感じました。


ところで、私自身は建築家のはしくれなので、上記の非常に素晴らしい建築がストップして、あまつさえ、完全に中断してしまう可能性があるのは非常に心苦しい。問題は設計にあるのではなく、業者と行政との、やりとりの不透明性のみにあると考えたいが、そういうわけにもいかないだろう。
ところでロンドン・オリンピックでは、月々積算を更新したそうだが、これは大変な作業量になるだろう。私は現在、設計ツールとしてヴェクターワークスを使用しているが、BIM(Building Information Modeling)を取り入れるかどうか、現在携わっている学生寮設計の初期段階で議論となった。もし、この3Dモデリングデータ情報とでもいうべき手法がより身近なものとなれば、ひょっとしたら積算の逐次更新も容易になるかもしれず、そうなることは、設計者にとっても、施主にとっても喜ばしいことだと思う。

一方で、このプロセスが複雑化するようなことになれば、若い建築家が公共建築を設計する機会を、熟練した大事務所に奪われることになりかねない。また、公共建築物の、建設費のみに着目した議論ではなく、共有価値としての、シンボルとしての価値も吟味され、広く議論の対象となるような、そういったシステムを構築していただきたいと思う。



2012年12月15日土曜日

ミュンヘン、持続可能都市への挑戦 (5) 再構築-推奨

再構築 - 推奨

1.新しい価値感の創出

混合は、分離よりも面白い
都市計画行政も、マーケットも、異種用途、機能を分離する傾向が強い。問題発生を避けるほうが、混合による相乗効果を期待するよりも重要とみなされている。しかし、思考の転換が求められる。個々の空間的、機能的な特性に価値をおき、そしてその各々が発展されるべきなのだ。

量よりも質
短期的利潤の追求は、自動的に単一タイポロジー、単一機能へと帰結する。地域の全体的なスクラップ・アンド・ビルドや、地域を新しく囲い込むよりも、長期的なビジョン、新しい付加価値モデルの創出が必要だ。

既存リソースの再評価
再構築は既存リソースの再評価から始まり、かつ、再評価発展して、その先に新しさは生まれる。分散や多様性は従来の思考方法ではデサインすることは難しい。それらは、既存物との、その場に即した、そして創造的な取り組みによって生まれる。

公と私の結合
斬新な空間的アイディアや、平凡な場へ新しい息吹を吹き込むものは、時として非公式な使用や一時的な活動である。これらを公的な発展プロセスへ組み込むべきである。

2.全体的都市理論の促進
与えられたものとは何か
混合型への再構築を、全体的都市戦略へとスムーズに移行させるために、対象となる商業地域の分析が必要となる。

対話/結合の促進
ある地域の関係者へ、混合居住区の発展目標をより良く理解してもらうためには、積極的な対話、そして部門を越えた理論が必要になる。そこでは、様々な都市の様相(都市計画、緑地計画、文化、社会など)が渾然一体となって議論される。

公的調整機関の設置
再構築を調整するために共同体的調整機関が設置されるべきだ。この機関は各地域情報を蓄積し、大枠の目標設定や土地所有者とのコンタクトを構築し、様々な所有者、使用者、共同体の興味を相互に結びつける。

3.新たな行政、コントロール
都市と発展の協調プランニング
新しい地域は、対立からは生まれない。必要なのは、協働から新たなチャンスと可能性が生まれるという、共通認識だ。それらは、参加者の先見性を要求する。特別地域では、建築、ランドスケープ計画、計画権利、不動産経済などの分野から結成された専門家チームと計画を推進することができる施設が計画される。

計画事務所
全ての専門領域を、その場で即座に話し合うことができる計画事務所があれば、間違いなく計画のスピードを上げることが出来る。土地所有者は、このようにして行政機関の中に掛かりつけの相談者を持つことができる。

計画をコントロール・迅速化するための公的不動産
再構築の枠の中で、立地、不動産と、部分プロジェクトの大きさとその価値は重要な要因である。公共による大規模な土地所有は、土地の交換、補償として利用することができる。例えば、再構築にそぐわないような商店、企業などはこれらを利用して移設することができる。

緑地としての公的不動産
小分割、複雑な建築規定によって、小規模プロジェクトでは適切な緑地計画をすることが難しくなっている。そこで公的不動産は、レクリエーション、自然の補完、そして特に都市の気温調整などに活用される。

4.クリエイティブな計画と発展
ダイナミックな、プロセス計画
混在型居住への再構築は、決して平坦な道のりではなく、長期的視点を必要とする。プロセス重視の発展計画によって、各小地域の個性的なダイナミズムが大枠の計画と同調する。そのために必要な基本的条件も、同時に決定される。

様々なスケール
再構築のプロセスにおいて、同時進行的な、分野を超えた、様々なスケールでの活動が必要となる。

様々な活動の場:トップダウンと、ボトム・アップ
計画には強い印象を与える、ビジョンが必要となる。その一方で、そのビジョンには、生き生きとした意見を取り入れるべく、自由裁量の可能な余地が含まれていなければならない。

自由裁量の可能な建築法規
法律によって規定されている自由裁量の可能性は大いに活用されなければいけない。計画と関連したBプランは、そのためのツールとして、その可能性の範囲を決定づける。

リスクマネージメントの活用
再構築の過程では、法的衝突は避けられない。よくある例として、ある土地の所有者が、新規計画による新たな用途、これまでと異なる容積率、建物の型によって、彼らの土地の減価や汚染を心配する。このような事象は好ましいものではないとはいえ、回避するべきではない。なぜなら、それらは用途の混在ではなく分離へと発展する可能性があるからだ。

パイロット・プロジェクトの実行
パイロット・プロジェクトを実行するにあたって、行政は、土地や不動産の所有者が再構築プロセスをよりよく理解するために、そして、彼らをプロジェクトのパートナーとして獲得するために、特別なプログラムを実施する。例えば、パイロット・プロジェクト作成の過程で、展示会やフォーラム、小冊子などで紹介する。そして成功した再構築の過程を、様々な場で議論し、交流の輪を広げていく。


ミュンヘン、持続可能都市への挑戦 (4) 再構築-他地域への応用

他地域への応用可能性とは、ケーススタディーされた地域と似通った地域へ、そのまま建築や緑地計画を適用することではない。ここでは、以下のように定義する。

どのような素晴らしい計画でも、土地や建物の所有者に受け入れてもらえない、建物の解体費が高すぎるなど、その地域に再構築に対応するキャパシティーがなければ計画の遂行は不可能だ。
そこで、ケーススタディーされた地区において、様々なバロメーター、例えば、騒音、既存建物の状態、容積率、立地、所有形態などを分類、分析し、それらがどのように再構築へ影響を与えるかを調査する。最終的には各バロメーターごとに導き出された図を重ね合わせた。
この最終図は、将来的な、商住混合地域への再構築ポテンシャルを可視化する。



上図は、あるケーススタディー地域で、各バロメーター毎に作成された濃淡図。例えば、左上端の図はランドスケープポテンシャルを示し、色が濃いほど再構築が難しいことを示す。



上図は、全てのバロメーターが重ねあわされた図。同様に、色が濃いほど再構築が難しいく、明るい場所は比較的再構築しやすいことを示す。



再構築は、基本的には、所有形態が多様であるため、各敷地ごとに行われる。

変遷バロメーターは、再構築のプロセスがどのように最適化されていくべきなのか、ヒントを与えてくれる。例えば、開発地域に隣接する地域では何が起こるか、そして建築は周辺地域との関係においてどのように作り変えられるべきなのか、どのような計画を遂行するための権利が必要とされるのか、そして、どのような相互作用が広域的に発生するか、など。

 

2012年12月9日日曜日

ミュンヘン、持続可能都市への挑戦 (3) 再構築

計画の出発点と目的
ほぼ単一用途地区であった商業地区へ、新しい形の住労混合型の都市空間を実現する。
しかし、混合型居住地区への再構築は抵抗が強い。
その理由として挙げられるのは、相反する希望、複雑な所有形態、多様なビルディングタイプ、インフラの整備、様々なかたちでの汚染等で、これらが重複して、計画の遂行を困難にしている。
しかし、商業者へ将来のパースペクティブを明確に示唆することで安心感を与え、新旧居住者には可能な限り快適な住居提供を保証することにより混合地区への促進を図る。

以上の目的のもと、ミュンヘン、オーバーゼンドリング地区からケーススタディー地域を選定し、提案を行う。この提案は、この選定地域と似通った他の地域でも参照されることとなる。


方法
提案は五つの段階を経て行われる。
1.現状分析
地域変遷に必要不可欠な指標を設定し、それに基づき様々なパラメーターを重ね合わせることによって、スタディー地域の変遷可能性を明らかにする。
2.スタディー地域のプランコンセプト
ミュンヘン南西部の三地域をスタディー地域として選定し、テストプランを作成することで、居住地域としての発展ポテンシャルと、発展阻害要因が評価される。
3.交渉へのモデルと計画
段階的な実行には、全計画地域及びその各部分において、計画のコントロールと交渉の際に用いられる実行戦略作成が必要である。
4.他地域への応用
テストプランと実行戦略作成によって得られた知見によって、他地域へも応用可能な交渉モデルが確立される。
5.推奨
その結果、混在型居住地域への再構築プロセスが明示され、かつ推奨される。

クラウ名誉教授とのお茶 

今日は、博士論文を指導していただいたクラウ名誉教授を家に招待し、お茶を飲んだ。我が家は新生児がいるので、ご足労願ったわけだが、教授も現在は退官されていることもあり、また、先日、金曜日に、ベルリンで携わっておられたプロジェクトを終了されていたこともあって、非常にリラックスしておられた。また、昼飯を食べないことで叱られ、不機嫌な長男にも暖かく接していただけた。

教授には、日本で購入してきた急須と湯のみ、そして芥川龍之介の“羅生門”を感謝の気持ちとして進呈し、非常に喜んでいただけたのでとても嬉しい。

ところで、先日終えたというベルリンでの仕事というのは、かつてのIBAの建物群を、いかに外観を変えないで、現在の断熱性能などを与えることが出来るのか、という調査報告書であったらしい。非常に短いスパンでの仕事であったらしく、通常なら一年ぐらいかけてこなす仕事量を、3ヶ月でこなしたので大変だったそうだ。教授は退官されておるので、もう仕事は請け負わない、と冗談交じりに言っておられたが、矍鑠とされておるので、また打診があれば何かされるのではないだろうか。個人的にはなにかしていただいて、その話をまた伺いたいと考えているのだが。
このIBAの建築群は1950年代後半に建てられたとおっしゃっておられたが、当然、グロピウスや先日なくなってしまったニーマイヤーなど、有名建築家が設計しており、しかし、その当時はもちろん現在の建物性能を満たしていない。例えばバルコーニー、窓枠は断熱性が悪く、この点を、外観を変えないでいかに改善するべきかが課題だそうだ。
幾つかの提案として、内断熱、暖房機器の性能向上、そして、窓枠はある特定の製造業者がいるらしく、将来的には彼らを手を携えて計画を実行に移していかなければいけないのではないか、ということだった。

私も約一年前に、我が家の近くでもあるミュンヘン郊外に建つ、1920年代に建てられた、アルビン・ザイファルトというランドスケープアーキテクトの設計したビッラの改修に携わったことがあるが、この際にも、いかに壁の断熱性能をあげるかを考慮し、地下部分は内断熱プレートを張ったり、窓台を下げるためにどうするかを、所長が苦心していた記憶がある。そしてこれは、保存建築物局との交渉手腕が試される場でもある。私は言葉の壁があったため傍らでこの交渉を傍観しつつ詳細図をひたすら描き続けていたが、今考えれば、貴重な経験でもあった。

そんなこともあり、ヨーロッパは、現在、本当に都市の作り変え、つまりは持続可能な都市へと発展している真っ最中なのだなぁ、と実感せずにはおれなかった。


教授は、年末に初孫が生まれるらしく、我が家の息子たちを目を細めて見守っていただけた。最初は教授の問いかけにもなにも返事を返すことのなかった長男は、次第に自分から話しかけるようになり、最後は私の体を使ったアクロバティックな技を何回も披露していた。しかも、敬語を使わないで、君口調で話しかけているので、ちょっと敬語を使うシチュエーションを教えるいい機会か、と思い、ちょいちょいちょい、と嗜めようとすると、いやいや、話させておきなさい、問題ないわよ、と教授に合図を出されてしまった。教授いわく、やはり息子のほうが完璧なドイツ語を話すそうだ。。。。完全なる敗北です。


2012年12月8日土曜日

ミュンヘン、持続可能都市への挑戦 (2)

持続可能居住都市への戦略と方法

ミュンヘン市は2009年下旬に、戦略と方法を広く知らしめるために、そして効率よくこの目標を遂行していくために、3つのチームに都市の分析とその報告書作成を依頼した。
その際の3つの柱は以下の通りである。

1.再構成
2.都市境界部 ランドスケープ
3.高密度化

これらは同時に、ミュンヘンの各都市部、そして隣接する他都市との相互理解のうえになりたつものである。

1.再構成
再構成は、大きくは価値の低下した用途地区の切り替えから、既存構造への新たな用途の挿入など、様々なスケールにて行われる。今回の報告書では、商業地区への住居地区挿入はいかに可能であるか、という点に重点がおかれる。

2.都市境界部 ランドスケープ
ミュンヘン市境界部には、まだ住居地として利用できる敷地が残っているが、そこでは、現存する緑、自然をいかに取り込んで、あるいは存続させて住居地域として発展させるかが課題となる。この点については、新たな居住地区とそれを取り囲む自然との境界部分を、様々な住棟タイプを適宜配置することによって解決する提案を行う。

3.高密度化
ミュンヘン市の、居住地区面積の不足状況を鑑みると、現存する居住地区の高密化を検討せざるを得ない。それらは、戸建て住宅地区、集合住宅地区、ブロック住棟など、ミュンヘンに現存する住戸、住棟形式を用いて解決する提案を行う。

まず、現在の都市構造を分析し把握すること、そして、過去行われてきた都市未来像の提案は、都市の全体像で重要な働きを示す、都市建築のその場での特性を明確に示すことに役立ってきた。
従って、上記に基づいて提示される報告書、及び提案は、今後のミュンヘンの都市計画指標として用いられることが期待され、都市の発展を制御するうえで欠かせないものである。

______________________________________

次回からののブログでは、これら3つの重点について作成された報告書の内容について翻訳していく。

2012年12月6日木曜日

ミュンヘン、持続可能都市への挑戦 (1)

先日、確認申請庁へ、確認申請図面で不足していた敷地図面を提出してきたときに、“居住地区の持続的発展”という展覧会がひっそりと行われていたので手短に観てきた。とはいえ非常に興味深かったので、これからしばらくレポート調にブログに綴っていきたいと思う。

まず、持続可能都市の模索というのは現在かなり広い範囲で言われている。ETHの教授たちの研究室の紹介でも非常に良く見かけるし、嘗てバイトしていた設計事務所のシェフも、自分の博士論文のテーマについて説明したときに、ミュンヘンは持続可能都市の模索の一つとして、外側にスプロールするのではなく、都心に居住空間を確保していく、都心回帰が今、起こっている、と言っていたことを懐かしく思い出した。

ミュンヘンの確認申請庁というのは、ちょっと変わっていて、その始まりは、たしか、テオドア・フィッシャーのかの有名なシュタッフェル・バウオルドヌングを遂行するためのものとして開設されたように記憶しているが、現在の庁長であるエリザベス・メルク女史や、その前任のタルゴット女史は、かなりアクティブに、都市計画の遂行と、その広報活動に力をいれているように見える。

今回は、この展覧会の目的について、手短にまとめてみようと思う。


Langfristige Siedlungsentwicklung



ミュンヘンの人口は、増加している。これから2030年へかけて、15万人の人口増加が予測される。それに従って、居住地区面積の不足が予想される。過去20年を振り返ると、都心の空地を利用した居住地の拡大を図ってきたが、将来的にはこのような空地がなくなってくるため、今までの成長モデルは通用しなくなってくる。
そこで、都心への回帰を推進することとなる。その目標は以下の通り。
1.土地再利用
2.既存住居建物の再利用
3.空地への新しい建物建造の回避

これらの目標に沿って、都心回帰の可能性について展示会は行われた。


尚、以下の翻訳は、2012年3月出版のパンフレットによる。
Herausgeberin
Landeshauptstadt München
Referat für Stadtplanung und Bauordnung
Projektgruppe Langfristige Siedlungsentwicklung


2012年12月5日水曜日

なぜ、日本を去ったのか

今回、村上龍編集長のメールマガジンに寄稿された経済評論家、水牛健太郎氏の文章を読んで、なぜ、自分は日本を去ろうと思ったのか、非常に強く思い出され、そして共感した。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/index.html
たぶん、この文章をコピペすることは法に触れると思うので、要約すると以下のようになる。

主旨は、なぜ、日本経済は改善されないのか、少子化傾向は改善されないのか。
デフレの大きな要因として、少子化があり、少子化の原因には、自己決定権の欠如がある。そして、そのために、人々は、この日本社会が生きるに値しない社会であると感じ、そのために少子化が起こるのではないか、と。
自己決定権の欠如とはなにか、それはつまるところ、日本の企業文化、そしてその中での働き方にあるのではないか。水牛氏は、この企業文化は日本人の若者にとってすら異文化であり、その中で職を得るために、その後晴れて入社した後には、順応するために大きな犠牲を払わなければいけないということに疑問を唱えている。
一方、そういった企業に属さない場合には、社会的弱者として分類され、差別の対象となる。
現在の日本では、自己決定権を有する自由、と豊かさが両立しえない。自由であろうとすると、無力となってしまう。
ところが、人間は、自由であるときに、最大限の力、つまり創造力を発揮する。自由でない人間にはブレークスルーする力など、はなから与えられていないのだ。

筆者は、以下のように、このエッセイを締めくくっている。
“このように考えると、日本経済再生のためには、企業の文化が変わること、それと同時に企業外で働く選択肢が増えること、それによって日本の経済社会において、もっと多くの人が自己決定権を握れるようになること。つまり、日本の経済社会がもっと自由で風通しのよいものになることが決定的に重要だと思います。”


自分が日本で生活していたときに、非常に強く感じたのは、全く水牛氏の述べている生きづらさだった。当時は不満だけが先行し、水牛氏のように言葉にすることさえ憚られた。何故なら、このように考えること自体が、自分の欠点をさらけ出しているように感じていたからだ。それにしても非常に不思議だったのは、同世代の人々が、この社会のあり方を、当たり前の前提条件として受け入れていたことだった。そして、この前提条件を受け入れる、という行為そのものを、一つのステイタス構築の第一歩として、誇りへと摩り替えて自分を納得させているように見えた。
正直にいうと、自分は、これを受け入れられなかった。そして、そういった自分を、一種の落伍者としてみていた部分もあった。息苦しかった。これは、どうにかしなければ、と思った。だから、どうしても日本という国の枠組みから一歩はみだした地点へと、自分をシフトさせたかった。だから、ドイツへ来た当初は、本当にすがすがしい気持ちになれた。この気持ちは、実家を離れ、東京へ出たときに感じた開放感と、同質のものだった。

ドイツでの生活では、非常な困難が付き纏った。言葉の壁で散々な目にあったし、悪戦苦闘し、心の底からドイツ人が嫌いになったときもあった。でも、言葉は、いつかは上達するものだ、という確信があった。だから今まで、頑張ってこられた。日本では、自分ではどうすることも出来ない壁がある。ある組織へとあらたに参入すると、言葉づかいによって、その組織の底辺へと押しやられてしまう。大学院では、年齢というヒエラルキーと、学年というヒエラルキーが両立していない。これを改善する余地は、自分には日本社会では見出すことができなかった。だから、社会から大学院へと復帰したときには、そこでも非常に難しい体験をした。英語にはそういった点がない分、非常にやりやすいように思える。英語圏の大学院では、妙な人間関係に煩わされることなく探求に勤しむことができるのではないか。少なくとも、ミュンヘン工科大学にて、言葉の壁は抜きにして、ヒエラルキーに関する人間関係で問題に直面した記憶はない。
こうやって俯瞰してみると、自分の人生は困難ばかりだ。自分は異国の地にて、家庭を築き、子供たちと過ごすことによって救われた、と思う。

水牛氏のエッセイでは、少子化の原因を自由の欠如と位置づけていたが、少子化は先進国における世界的現象だと思うので、自分には十分納得のいくものではなかった。が、自由の欠如という点においては、正に自分の考えていたことが明確に論述されていたので、感動すら覚えた。この点が日本社会で改善されたとしたら、その時には息子を日本へ連れ帰りたいと本気で思う。しかし、そのための改革は、並大抵のものではないだろう。それを受け入れる素地など、よっぽどのカタストロフを体験した後でないと生まれないのではないか。



2012年12月2日日曜日

中心

本棚に置き去りになっていた、イーフー・トゥアンのトポフィリアをなんとなしにパラパラとめくっていたんだけど、改めてその面白さに感じ入っている。

特に、博士論文で論じた、緩やかな都市境界を描き、論じあげた後では、改めてトゥアンの論じる、人間の営為、環境の捉え方に感じ入る。

環境は、緩やかな連続体で出来ているが、人間は、それを分節し、二項対立を作り上げ、その二項対立を中和するものとして、自分の立脚点、つまり中心を措定する。それは、信号の赤と緑の中間項としての黄色だったり、空と地中の中間としての大地だったりする。

自分は、中心の周りに存在する都市境界を、分節化し、それらが重ね合わさったものとしての境界を描いた。



ところで、生と死の二元性、そして死を中和するものとして、神話が存在する、とトゥアンは述べている。かつて、僕は、息子の熱中しているウルトラマンも、現代の神話といえるのではないか、と考えたことがあるが、ウルトラマンは死をテーマとして扱っているかどうか。M78星雲を黄泉の国と捉えることができるのか。3分間の戦いを終え、どこかに去っていくウルトラマンは、死と復活を表しているといえるのだろうか。いずれにしろ、様々な、環境破壊や友情などのテーマが描かれているが、やはり息子は変身するときのポーズアクションや、戦いの仕方などに興味の大半を割かれるらしい。しかし、飛行機やロケットなどは非常によく観察していて、最近息子の描くものはほとんどロケットなんだけれど、かなり美しいロケットや飛行機を描く。


ミヒャエル・エンデの、traumfresserchen、ゆめくい小人を購入した。昨昨日、息子に、寝る前、長いことかけて読んで聞かせた。昨日、朝、起きるなり、昨日夢をみなかったよ、という。きっと、ゆめくい小人に怖い夢をくわれてしまったのだろう。

2012年10月5日金曜日

息子の学校、ミュンヘンバロック

次男、無事に誕生しました。名前は玄十。ミュンヘンはカトリックの強い地域なので、キリストのシンボルである十字架を名前に組み込みました。この名前は漢字のビジュアルと画数で候補にあがりました。誕生後、妻と僕は彼の顔をみるなり、これは玄十だね、と意見の一致を見たので、決定。残念ながら、長男の提案であるカイトは、彼の子供が生まれたときにつけることになりそうです。

ところで、長男が、10月から、両親が外国人である場合に義務付けられているVorkursに通い始めました。一方、次男はドイツ国籍を取得することができるらしく、成人するまでは二重国籍となるのですが、我が家にドイツ人が誕生することとなりそうです。
話は戻って、息子の通う学校が、結構いい建築なので紹介したいと思います。

この学校は、Hans Grässelという、ミュンヘンでは重要な建築家で、Theodor Fischerや、Carl Hochederとの同時代人によって設計されました。彼は例えばNord, West, Ost そしてWaldfriedhof(墓地)建築などを設計しています。
さて、藤森先生がいらっしゃったときに、Thodor Fischerの設計した小学校を見学したことは以前書きましたが、息子の小学校も、ほぼ同時期に設計され、同時代的空気を伝えてくれます。
当時はやはり教育革命があったらしく、ミュンヘンでもシュタイナーなどの影響を受けて、建物も閉鎖的なものから開放的空間を有する校舎へ変えようというムーブメントがあったそうです。どうやらその中核を担ったのが、ホッホエダーで、彼はバルコニーを有する学校建築スタイルを確立し、フィッシャーやグレーセルはその影響を受けました。そして、それらは、ネオバロック建築なのだそうですが、どのあたりがそうなのか、いまいちピンときません。というわけでググッて見ると、ネオバロック様式の後期では、ルネッサンス様式との混合が見られるとのこと。それだったら妻側の造形にそれらしきものが散見できますね。


バルコニーを持つ学校建築ということで、この学校にも、なんと5階部分にテラスがあります。そういえば、エリザベス広場に建つ学校にも、3階にテラスがありました。これらのテラス、残念ながら現在は使われていません。転落する危険があるからですかね。
エントランスは男女別に二つあります。現在は区別されていませんが、エリザベス広場の学校もそうなっているので、当時は男女別々に教育していたのかもしれません。ホールは階段を中心として、休み時間には子供たちであふれる活気のある空間となります。

 
 
 

残念ながら、床材には非常にやすいタイルが張られ、素材的にはあまりビビっとはこないのですが、アルミの枠にガラスのはめ込まれている間仕切り戸が、古い建築と相まって良い表情をだしています。この表情、どこかでみたな、とおもって回想してみたのですが、ワイマールのバウハウス校舎だったと思います。
装飾もいたるところに施されており、例えば教室に入る玄関の枠には、アールデコを意識させるような装飾が施されています。
これは構造はなんですかね、フィッシャーのようにコンクリートを使っているようにも見えないので組石造かもしれません。

残念ながら校舎内をうろつくと不審者だと思われる可能性がかなり大きいので最上階まではまだ行っていないのですが、今度、息子を引き連れて校舎内をちょっと散歩してこようか、と思います。

 
 


2012年9月16日日曜日

Villa Stuckよ

昨夜は妻が腹痛を訴え、ついに陣痛か、と色めきたつも、ただの腹痛でした。

しかし、来週中には本当に生まれそうです。
我輩はベイビーである、名前はまだない。。。。ってなことになりそうな予感です。

さて、そんなこんなで今日は天気も良かったので、家族そろっておそるおそる(というのは、いつ産気づくかわからないので)、Seidl Villaという場所に行ってきました。何故か。

その場所に、Walking Cafeが移動しているはずで、藤森先生がティーセレモニーをしているはずだからである。ところが、いってみると、茶室らしきものの影も形も見当たらない。カフェがあったのでウェイトレスのお姉さんに聞いてみると、何故だかわからないが今日は中止になったのよ、という。では、Walking Cafeはいずこに???
丁度、ドイツ人の友人がVilla Stuckの先生の展覧会を訪問していたので、彼に電話し、どうやらVilla Stuckにあることがわかった。これは、なにかトラブッタのかな?そのときはそう思った。

その友人と茶室の手伝いもした日本人学生とシュバービングで待ち合わせし、一緒にVilla Stuckへいくことにした。到着早々、館長に会って、どういうことなのかの説明を受けたのだが。。。

どうやら、警察と建築関係役所との手続きが煩瑣だったために、取りやめになったらしい。というか、Villa Stuckよ。一体いままで何をしていたんだ???Walking Cafeが町中を練り歩くという話はいつから出ていたんだ?おまけに、このことに関しての進行状況については何度か問い合わせていたが、なんだかいつまでたっても歯切れの悪い反応しか帰ってこなかった。
最近などは、メールしても何の音沙汰もなし。

思えば、色々この美術館のオーガナイゼーションはいただけない。
そもそも、展覧会を開くという時点で、契約書のようなものの打診がなかったようで、その点について藤森先生の秘書の方から厳しい言葉をいただいた。なので、すぐにでも契約面について説明してくれ、と伝えたのに、日本側は展覧会を開くにあたって謝礼が欲しいのか、と話を摩り替え、その後も延々と何も行動しなかったらしい(というのは、展覧会開催前に、日本側から遠回りで聞いたので)。また、日本側での展覧会準備にかかる費用はどうするのか、という話をしてもポカーンとして動こうとしない。あげくの果てに、ここでも展覧会開く場合には美術館から費用は出さない、展覧会が開かれるというのは名誉なことなのだから、という。それはそういうことなのかもしれないが、だったら書面で先方に説明してくれ、と再三伝えたのに、これまたポカーンとして、展覧会がオープンした後になってようやく日本側と折り合いがついた、という話をヒトヅテに聞いた。

そして挙句の果てに、Walking Cafeは動かない。あれほど先生も楽しみにしていて、自分もそうなることによって茶室が完成すると考えていたのに。そもそも動かすんだったら、展覧会の始まる前かオープニングに際して動かしたほうが宣伝効果も上がるし、なぜそうしないんだ、とういうことも所長にも何回か言ったし、Villa Stuckにも伝えたことがある。
しかも、茶室が動くというメールが自分には来なく、事務所の同僚に送られてきたのも、たしか約1,5週間前だったと思うのだが、それから推測するに、やっと1,5週間前に茶室の移動をどうするか、と考え出したのだろう。

更に言うなら、茶室の今後だが、これまたヒトヅテに、藤森先生が買い取るかもしれない、という話を聞いたことがある。なので、所長から、茶室をミュンヘンの第三者に売る、という話を聞いたときには驚いて、藤森先生が自分で買うという話も聞いたことがあるから慎重にことをすすめたほうがいいんじゃない?といったこともある。すると彼は、茶室を売って収入を得ないと展覧会自体が成り立たない、という。どうやら彼の中では、藤森先生が購入する、ということから、収入が入るという考えには結びつかないようなのである。だから、誰かが買った、という話を聞くたびに、ドキッとする。現在も売れた、売れないという話が飛び交っている。結局どうなったのだろう。

色々、開いた口がふさがらない状況である。
館長の性格や態度から察するに、これらの摩訶不思議な状況は彼に起因するのではなく、彼をサポートしているある人物のせいなのではないか、と考えているが。。。

それでも、こういった人たちを相手に、動かしていかなければいけなかったのだろう。が、残念ながらそういったことを主張して押し通せるだけの言語力が自分にはなかった。非常に残念。

しかし、展覧会は、先生の建築力のお陰で多くの人に訪れていただいているらしい。そして、先生がヨーロッパで更に認知され、藤森建築が更なる飛躍をするのであれば、私としても喜ばしく思うし、必ずそうなるものと確信している。

先生には、一つ一つの会話からも常に勉強させられることが多く、いただいた茶室の本からも多くのことを学ばせていただき、これからも学ばせていただく所存です。そして、藤森先生とご一緒にいらっしゃった奥様、藤森先生の探求の深さと飛躍する発想も、この奥様いるからこそ、なのだと理解しました。我が家では、日常の瑣末なことで鞭でびしびし叩かれるような毎日ですが、めげずに頑張ろうと思います。


2012年9月14日金曜日

藤森先生と奥様とテオドア・フィッシャー

今日のミュンヘンの天気は最高。
最近は、同僚と一緒に昼食はとらず、一人、次男の名前を考えていることが多いのだけど、今日もその例にもれず。なんか素敵な名前のキーワードでもないものかと思いながら、藤森先生の茶室学をぶらぶら歩きながらシュバービング地域を散歩。建築とか、茶室のワードから、なにか素敵な名前が思いつかないかなぁ。


ところで、今日、藤森先生が奥様と一緒にミュンヘンへお越しになり、事務所の所長、ハネスがかねてより計画していた、事務所周辺のテオドア・フィッシャー建築めぐりに、通訳としてご一緒することができました。奥様に挨拶すると、私のブログをご覧になっていただいた、とのこと!読んでいる人などほとんどいないと思っていたので緊張が走りました。これからもうちょっとしっかり書かないと。。。と思って、過去の記事にざっと目を通してみると、なんとも誤字脱字の多いこと。トホホ。

まず、フィッシャーの都市計画の本を先生へ見て頂いて、この本の作成に参加した同僚が解説をしました。先生もおっしゃられていたのだけど、図面上では、道路がほんのちょっとウネ、っとしているようにしか見えない、ましてや、そのちょっとしたウネでさえも見落としてしまいそうな計画なのですが、実際に解説されながら見てみると、なかなかダイナミックな空間が出来ていることに気づかされる。時間の関係で、自分が個人的に一番好きな街路計画がされている地域へは向かわず、クアフリステン広場を経由してエリザベーテン広場に面した学校建築へ向かう。この辺りは、この広場を中心に、建築家ハウベリッサーの意図した建築の序列配置、そしてハインリヒの提案したゾーニングの手法が、フィッシャーによって見事に融合され、さらに彼独特の、ジッテの思想に影響された都市計画手法が存分に発揮されている場所。
そして、地域の中心とされた学校建築の内部へと足を踏み入れた。

先生の目は、まず、表面をはつられたコンクリートへと向かう。ここからペレー、そして打ちっぱなし表現へと変遷していくのではないか、と。シュタイナーのゲーテアヌムの第一作の建物もそういう表現がされていたという。たしかに、南ドイツの初期コンクリート表現というのは、石に似せようという気持ちが滲み出している。
そして同僚とハネスが言うには、シュタイナーなどが活躍した時代は、がんじがらめの押し付け教育からリベラルな教育へと舵が切られたときでもあり、このフィッシャー建築も、そういった教育に対応できるように、ゆとりのある空間が設計されている、とのこと。
んーーー、ゆとり教育だからゆとり空間???ちょっとそれって飛躍していない?フィッシャーの建築って、学校建築に限らず、こういう空間設計をしていると思うんだけど。。。

そんな話をしていると、建物の管理人に偶然出くわし、ハネス得意の話術によって、建物の塔へ登れることになった。ずんずん階段を登っていく。
大屋根のある部分でテラスに出て、ミュンヘンの市街地を見晴らす。テラスの床が金属で葺かれていたので、通常は使われていないテラスなのだろう。そこで、ミュンヘンの主要建物の説明、建物の主要な特徴などについてハネスが説明。屋根の瓦を観て、バウワウとの共同設計における屋根材の話になる。藤森先生いわく、バウワウは空間計画は非常に良く考えているが、表面材など、防水紙をつかったりするし、あんまりマテリアルや伝統建築に興味がないのではないか、とのこと。いやでも最近は、伝統建築に興味があるみないたので、藤森先生の影響なのではないか、とハネスが突っ込んで、一堂大笑い。それにしても興味深いのは、人は何故か大屋根とパノラマを前に、すがすがしい気持ちになる、ということだ。なんで大屋根と都市のパノラマを前に話しをすると、あんなに楽しいんだろう。
ここから下へおりるのか、と思っていたら、更に上も見せてくれるらしい。ずんずん階段を登っていく。だんだん細くなっていく階段。もうどうでもいいやって感じで、階段の場所とか、階段の固定の仕方とかもだんだん雑になっていく。
最上部へくると、窓の開口部の下枠と床面が同じレベル、つまり、転落防止の手すりなし。みんな息を呑んで、ミュンヘンの町を見下ろした。
その後、大屋根の屋根裏部屋というか、広大な空間も見ることができた。自分的には、この屋根組みの見える空間が一番良かった。ドイツの屋根組みは、日本のように、屋根材を組み合わせて加重を下に導くという感じではなく、材を挟み込んで、結合部で押さえ込んで力を伝えているように見える。なにかしら緊張感のある架構。幾つかの材が引き抜かれ、新しい鉄骨のジョイントとなっている点に、伝統建築物保存の観点から、こういう事例はあまりない、とハネスは興奮ぎみ。
建物の出口では、コンクリートではなく、本当の石がはつられていて、やはり世紀の変わり目のコンクリートは石の代用品として扱われていたのか、と思った。

2012年9月2日日曜日

caffee in walking café

 
日曜日、語学学校の先生、仲間とwalking caféにコーヒーを飲みに行ってきた。生憎、長居が出来ず、追い立てられるように退出しなければいけなかったのが残念だが、団欒するには、本当にとてもとてもいい空間。みんなも退出するときには名残惜しそうだった。
せっかく色々茶室や藤森先生について解説するつもりまんまんでいったのに、みんなあんまりそういったことには興味がなさそう。空間そのものを楽しんでいるように見えた。
 
一緒にいった仲間の一人、ソフィーに、どの茶室が藤森茶室の中で一番好きか、と聞かれ、僕はwalking caféと答えた。 内部空間の素晴らしい茶室は他にも多々あるが、茶室と都市との関係から見ると、そして高密度都市、大阪、京都で磨かれた利休の極限空間としての茶室ということを念頭に置けば、このミュンヘンの市街地へ歩き出す茶室が、今までの藤森茶室の中でも一番コンセプトに合致するし、エキサイティングでもある。
 
残念ながら、茶室はまだ、Villa Stuckから歩き出してはいない。そういう意味では、その持てる才能を全開したとは言えない。これがマリエンプラッツまで引き出され、そして中でコーヒーを飲まれることによって、藤森先生の茶室は初めて完成するのではないだろうか。
そしてその日は近い。少なくとも、9月の半ばには、茶室は街へ歩き出すだろう。非常に楽しみである。

2012年8月18日土曜日

子供の名前

子供の出産を9月の半ばに控えているわけですが、
子供の名前が決・ま・ら・な・い!!!

どうしよう、と気だけが焦る。
最近気づいたのは、好きな漢字を組み合わせるよりも、音から決めていったほうが近道なのではないか、ということ。
現在の有力候補

月読(つきど)
空人(そにん)
門日(かどひ)
楽(らく)
亜紋(あもん)
古今(ここ)
者音(じゃのん)
橙那(だいな)
桜海(おうみ)
円月(えづき)
名草(なぐさ)
地球(ちく)

しかし、真面目に考えてるの?という妻のいちゃもんや、画数判断でダメだしがでるため、決定打とならない。
大真面目なんだけど、たしかに坊主みたいな名前が多い。
妻と息子の第一候補は ゆうき。ダイナはいいなとほぼ一致したんだけど、いい漢字がない。ジャノンは息子が考えたが、ジャという漢字でいいのがない。う~ん。

先ほど、第一子の名前候補リストを引っ張り出してきたら、今回考えたのと、同じようなことを考えている。
白花、葉夏(はっか)
潮音(しおん)
無鳥(ないと)
桜季(おうき)
とか。

女の子だったら、雨林(うりん)ちゃんで決定なのになぁ。


このままでは決まらないまま、誕生を迎えてしまいそうだ。
また、前回のときのように、候補を10ぐらいまで絞って、顔見てから決めようかな。

2012年8月12日日曜日

自転車

補助輪をつけたことによって、俄然自転車にのる意欲の湧いてきた息子。昨日今日と、そんな息子と、初めて公道を走る。彼の人生史における、月面着陸にも等しい偉大なる第一歩。パパは少々大げさなのである。
自転車を買うときには気づかなかったことだが、後ろの車軸は、補助輪を取り付けるべく、少々長めに設計しておくべきらしい。が、いつものごとくイマジナリウム商品はデザインはかわいらしいのだが、実用性に欠けるのである。(散々、安物の景品(といっても5ユーロくらい何故か払わされるのだが)を掴まされて、妻は二度とイマジナリウム製品は買わないとご立腹なのである。)この車軸が、補助輪を取り付けるのには十分な長さがない!!!したがって、補助輪のモーメントに対する抵抗力のある金具を取り付けることが出来ないので、肝心なところで片側だけ補助輪の軸が回転してしまい、バランスをとることができなくなってしまう。
そんなこんなで土曜日は、バウハウスに補助輪をしっかり固定できるように、長めの車軸を買いに行って来た。それが、息子の初めての公道への乗り出しの理由である。
息子は初めて味わう速度がうれしいらしく、うははは、と笑う。後ろでパパは、車が来るたびに、息子がよそ見をしてバランスを失うたびに、そして駐車している車に突進するたびに、気が気ではないのである。
結局、バウハウスのあんちゃんに、はぁ、ここに自転車の軸なんて売ってるわけないじゃん、自転車屋にウィキナヨ、といわれ、しょんぼり家路についた。ママも、私もそうじゃないかと思ったんだけど、どうせ言っても聞いてくれないから言わなかったという。しかし、息子は初めての旅に満足げであった。

日曜日、ママがお出かけしている間に、スターウォーズエピソード5、帝国の逆襲を鑑賞して、惑星ホスと帝国軍と連邦軍の違い、ATATウォーカーについて説明していると、突然のママの帰宅。当然のごとく怒られると、自分は見たくなかったのに、パパが勝手につけた、という。嘘をつけ、このスターウォーズ面白いね、って言ってたじゃないか。しかもその後、スターウォーズの本にかじりついてルークがホスで凍死するところだったね、とか延々と言っている。
その後、待望の、ウェストパークへ自転車で行く。わずか一日たっただけにも拘わらず、もう自転車に乗るのがうまくなっている。
現在、第二子の名前を考えるために幾つかの詩集を読んで語感を養っているが、そのうちの一冊、谷川俊一郎氏の空の青さを見つめていると、を公園で朗読。僕の一番好きな詩、ネロと、宿題を読んで聞かせる。
ネロについては、あんまりピンときていないように見える。
宿題という詩はこんな詩。

目をつぶっていると神様が見えた

うす目をあいたら神様は見えなくなった

はっきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題

さて、この宿題を解いてみる。
目をつぶって何が見える??
なんにも見えない。
パパには神様が見えるぞ。
じゃぁ目を開けて。木立の間に広がる青空。もう一度やってみる。
なんか見えるか?
ウルトラマンが見える!コスモスと、マックスと、ゼロと、、、それは神様ではなくてヒーローなのである。
目を開けて。何も見えないだろ!でも、目を開けて、それでも見えるようにするのが宿題だって、とそこまでいって、それはちょっと、目に見えてしまったら危ない人なのではと考えてしまう。

二十億光年の孤独も読んであげる。火星人の友達が地球に仲間を欲しがっているんだよ。
火星人は、或いはネリリし キルルし ハララしているか という節で、息子とともに大爆笑。二十億光年の孤独に僕は思わずくしゃみをした という節でも爆笑。4歳児にも何かを伝えることが出来る谷川俊太郎の詩の素晴らしさは、こんなところにあるんだろうと納得した。

帰り、先頭を走るママは、遠く30メートル先を息子のスピードにあわせてゆっくり走っている。
スピードを上げる息子は、そんなママに大声で叫ぶ。

ママ、もっと早く走って!


2012年7月18日水曜日

ノイエ・ピナコテーク

最近の私たち親子は、すっかり神話に夢中なのです。
そんなわけで、現在ノイエ・ピナコテークで神話をテーマとした展示がされているので、息子と見学に行ってきた。

地下の今まで展示スペースではなかった場所で、シュトックなどの作品が飾らている。そこにはオイロペがさらわれてしまう場面がテーマの絵が一枚掛かっていたのだけれど、誰にさらわれたか、とかすっかり忘れていて、その場では息子に説明することができず、屈辱を味わう。
オイロペはゼウスにさらわれたんですね、そういえばそうだった。。。

その他、シュトックのケンタウロスの彫像を見て、四足の下半身に加えて腕がついているのは、合計六肢になるわけで、そうなるとかなり生物的にバランスが悪いんじゃないのかな、と思った。

息子は、先入観がないので、ゲーテの肖像画などはただのおっさんが描かれているという認識しかなく素通り。でも、マリアに抱きかかえられるキリストと、その後ろに斧を携え仕事に勤しむヨーゼフを描写した絵画の前で、面白いことを言う。
まず、ヨーゼフの名前が自分は即座に出てこなかったのだが、4歳児の息子に即座にヨーゼフでしょ、と指摘され、感心する。そして、マリア、キリストには頭上に光が差しているのに、ヨーゼフには差していないね、と鋭い指摘。よーくみてるなぁ。ヨーゼフは、完全にただの人として扱われていますねぇ。キリストのパパなんだから、もっと尊敬されてもいいんじゃないの!?処女懐胎の教義に筋を通すために、こういう扱いになったんですかねぇ。

もう一つ。
バイエルン王、ルートビッヒI世の肖像画を見て一言。
頭ぼさぼさだねぇ。
見てみると、確かに。王の威厳はボサとなったヘアスタイルのおかげで親しみやすいものとなっているように思えた。
いやぁ、バイエルンの歴史とかを説明してやろうと目論んでいたパパには、そこに着眼する余裕がなかったわ。面白い。


落ち着いて見てみると、クレンツェのギリシャ建築の絵やシンケルのゴシック建築の絵などもあり、印象派の絵画も、思ったよりも、少なくはない。これからは、アルテとモデルネだけじゃなく、ノイエ・ピナコテークも定期的に訪れよう、と心に決めた週末だった。

2012年6月2日土曜日

Michael Ende Museum ミヒャエル・エンデ ミュージアム

今日、ミュンヘン郊外のBlutenburgという城の中にあるミヒャエル・エンデ・ミュージアムへ行ってきた。展示内容的にはかなーり薄いが、彼の著作・及び関連図書が置いてあるので時間が過ぎるのも忘れて没頭することができた。入場料も1ユーロと安い。

ちょっと驚いたのが、日本語訳された書籍の多さ。フランス語訳書もおおく置いてあったが、日本誤訳された本の占める割合に驚いた。日本人はそういうのが好きなんだなぁ。とおもって展示を見ていると、更なる驚きが。

なんと、ミヒャエル・エンデ、奥さん、日本人!えー、フンデルトバッサーの奥さんも日本人だったけど!!すげぇな、日本人の女性。結構、有名人で日本人女性と結婚する人って多くないか?気のせい?でも、西欧の有名人で日本人以外アジア人の奥さんもらっている人、そんなにいる?
ジョン アンド ヨーコとか、日本人女性は東洋の神秘なのか!?

しばらくごそごそと絵本などを漁っていると、夢喰いという絵本に目が止まった。しばらくしたら、息子に買ってあげよう。
そして、更に面白いものが。なんとエンデの父上はエドガー・エンデという画家さんで、シュールレアリスムス寄りの絵を描いていたんだって。その絵は本当にキリコやマグリッドを連想させたんで、父上の絵だと知らなかった段階では、ああ、ミヒャエルの名を借りて売れない作家が個展を開いたときのカタログなんだろうな、とあんまり気にもとめなかったんだけど、父上だとわかったとたんに俄然興味が湧いてきた。
なるほど、じっくり見てみると結構、おもしろい。いや、かなり面白い。いかんせん、彼がもっと自分タッチの画風を確立できたとしたら、もっと面白かったのに。
ところで、ミヒャエルはこの父に非常に影響を受けていたようで、彼の父に捧げる詩はとても良かった。
ちょっと興味があって描かれている空間と建築を手短に観察してみたのだけど、空間は無限に延びていたり、あるいはあまりにもモダニズム建築でさらに驚く。人間は、詳細に描かれていたり、あるいは抽象化されていたり両極端にぶれるのだが、建築空間に関しては、すっかり絶対空間の出現とモダニズムの洗礼を受けている。そして、マグリッドにはあまり見られない強い寓意性。

時間が来たので、美術館を去ることにした。つい、こらえきれずに、受付のあんちゃんに聞いてみる。エンデの奥さんって日本人だったの??彼女は、エンデが前妻と死別したあとエンデと知り合ったらしく、なんと今でもご存命とのこと。おまけに、ミュンヘン在住。そしてしばしば、このミュージアムに来るんだって。昔はしかも、ここで働いていたらしい。
どっかで知り合いになれないかなぁ。

2012年5月29日火曜日

ドイツ建築旅行 ベルリン

紀行を書いていると、一番最後に一番感動したことを書こう、とためておりて、結局息切れして書かずに終わってしまう。ウィーンでのワーグナー、ポストシュパーカッセについてはまだ書かずにいる。

そんなわけで、昨日、今日とミュンヘンの、今まで見てこなかった建築を訪問してきた感想を書く欲望がむくむくと頭をもたげてくるわけだが、ここはそれを我慢して先日のドイツ建築旅行をベルリンの章にてしめくくりたいと思う。

フンボルト大学 図書館 マックス・デュデュラー
ドイツ建築旅行の最終日の前日、午後7時ごろにベルリンに到着した。とりあえずホステルにチェックインし、マックス・デュデュラーのフンボルト大学図書館を見に行く。時間が時間なので、その日に見れるのはこの建物だけ。しかし、大いに期待するものがあった。
しかし、ベルリンっ子はこの建物、全然しらねぇのな。場所を二人ぐらいに聞いて、とってもトンチンカンな方向を言われた。警察官に聞いても同じようにトンチンカンな方向を指す。僕はその時、フリーデンシュトラーセという、この図書館が徒歩5分圏にあるはずの場所にいたのだが、みんなここから15分くらいかかるという。そこで、みんなの意見を無視して自分の直感に頼る。そして、発見できた。

ところが。ロッカーの鍵は南京錠で、それを持参しなければいけないのだった。自分は大きい荷物を持っている。そこでホステルへ一度帰り、荷物を置いて再び図書館を訪れた。

建物の内部は撮影禁止だったので、写真は残念ながら貼ることが出来ないので、建築家のHPのリンクを貼っておく。

Max Dudler
http://www.maxdudler.com/

そして建物の写真
http://www.maxdudler.com/43-0-Jacob-und-Wilhelm-Grimm-Zentrum+Berlin.html?animateProject=1

建物の写真のリンクで、ページの右側にカーソルを置くとスクロールできるようになっているので、内部空間の写真をみていただきたい。

ウンガース事務所出身者の常で、グリッドの繰り返し。しかし、この内部空間の異様な象徴性はどうしたものか。テーブルについてしばし、向こう側で勉強に励む人々を観察しながら、威容を誇るホールをボーゼンと眺め続ける。

翌日、ミースの新ナショナルギャラリーを見にいくためにポツダム広場にて下車。そこでばったり蚤の市に遭遇。そこで、一目惚れした洋裁道具入れを35ユーロにて購入。飛行機に乗って、その日にミュンヘンへ飛ばなければいけないことや、その後幾つもの美術館を訪問しなければいけない、と一瞬頭によぎったが、このチャンスを逃す手はない。
この洋裁道具箱は足とトッテがついて高さ約60センチ、幅、40センチという代物。使い込まれた木の風合いが良く、両側に蛇腹のようにパカッと開く。中には針やら糸やらがゴッソリと詰まっている。息子の工作道具収納箱にはもってこいだ。
そこでエッコラオッチラ、取手を握り締めながら広場からナショナルギャラリーへの道を歩いた。

新ナショナルギャラリー
正直に申しまして、この外観、最初に訪問したときには何がいいのかまったくわからず、入場料の高さも手伝って入るのをやめてしまった。今回は、入場する覚悟で訪問したわけだ。階段を下りるとレセプションルーム兼休憩室の大きめのホールがある。非常にすっきりしたデザインだ。ちなみに地上階は何も展示されておらず、見学することができなかった。もう一度、繰り返す。非常にすっきりしたデザインで、抽象化されたデザインだ。床と天井の間に仕切りがはめ込まれている。庭に面している部屋はジャッドなどの抽象彫刻が展示され、現在はそうではないがかつては床に敷き詰められた床材が、庭に敷き詰められた石の床材と同じ大きさで、内と外の境界の分断を緩くする意図があったらしい。


庭は美しい。バルセロナパビリオンを彷彿とさせる。バルセロナ、行きたいなぁ。


今回は、シャローンの国会図書館も見たい、と思ったんだけど、生憎、祝日ということで閉館。前回来た時も改修中で休館。本当に相性が悪い。この図書館、ヴェンダースのベルリン天使の詩に登場することでも有名です。

仕方ないので、ミュージアムインゼル、美術館の島へ。
まずここで最初に見たのは、アルテス・ムゼウム。古典様式建築、シンケルの代表作。
アルテス・ムゼウム
ここから、古代の遺産を巡る長い美術館訪問が始まるとは想像していなかった。
まず、この美術館には、ギリシャ時代からローマ時代へかけての神殿や墓所の彫刻群が展示されている。
しかし、そんなことよりも、シンケルの建築である。ミュンヘンっ子にはクレンツェやゲルトナーの好敵手という感覚も強いだろうが、世界的知名度からいうと、まったく話にならないくらいシンケルのほうが有名だ。たしか、シンケル、クレンツェともにベルリンでギリーの教えを受けていたと記憶しているのだが。
あの有名な階段室、そしてドーム。詳細はわからないが、これは大戦で破壊されたのだろうか。なにやらチープさが目だってそれほどの感動を呼び起こさない。ドーム空間も、僕はどちらかというとこんなに象徴的なものよりも、ゲーテハウス的な、アシンメトリーさ、日本空間的(ゲーテについて言及し、日本空間的なテーストについて述べるのも、はっきり言っておかしな話だが)なものに魅力を感じる。ところで、気になったことがあって、ミュンヘンのピナコテークデアモデルネの天窓は、この美術館の天窓を模倣したものなのだろうか。


ノイエス・ムゼウム
いまいち、ベルリンの美術館のネーミングとその展示内容が記憶できないのは自分だけだろうか。今調べた結果によると、こういうことになっているようだ。ミュージアムという名前のついているものは博物館的なもので、ナショナルギャラリーが絵画的展示内容。
調べたおかげで、なぜに展示内容のかぶっているアルテス・ムゼウムとノイエス・ムゼウムがあるのか、といった謎も解けた。



Altes Museum 古い博物館。シンケル設計
Alte Nationalgalerie 古い美術館。今回は訪問しなかった
Neues Museum 新しい博物館。チッパーフィールドによる改修
Neue Nationalgalerie 新しい美術館。

おまけに、ミュンヘンの美術館がピナコテークと称しているのは、ベルリンを意識してからのことなのだろうか。
ところで、このノイエス・ムゼウム、あまりにチッパーフィールドの仕事が多角的すぎて、結局彼が何をしたかったのか、いまいち良くわからなかった。改修という案件からいくと、まぁ仕方のないことなのだろうが、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークを戦後の混乱期に復旧させたデルガストの手法と比較すると、チッパーフィールドの混乱振りもよくわかるというものだ。
この建物のメインはなんといっても中央階段室。


材質は人工石。表面の違いで様々な表情を出している。この質感は好き。最近は、レンガの上にレンガの目地漆がわかるように塗ってある壁の表情が好きだ。



この後、飛行機の関係もあり、30分ほどの駆け足でペルガモン博物館を見に行った。正直、30分で見れる物量と情報量であるはずがない。しかし、あの神々と巨人族の戦いのレリーフを見れたのは良かった。
しかし、ペルガモンとミレーを訪問して、すっからかんだなぁ、と感じたのもそのはず、これだけのものがドイツへはこばれてしまっているのだからしょうがない。しかし、現地にそのまま存在し続けるよりも、ドイツへはこばれるたことによって今の保存状況を保っていることができる、といった話はどこかで聞いたことがある。
太古に想いを馳せると、人間の歩んできた、蓄積してきた莫大な遺産と情報量、努力に敬意を表さざるを得ない。今回の旅は、近代というほんの束の間に起きたこの凄まじい速度の変化の時代が、人類歴史の中で、どのようなものであるのか、といったことの片鱗を垣間見ることが出来た、という意味において、本当に充実したものだった。
あ、ところで、今日、博士論文、ミュンヘン工科大学に無事に提出することができました。いやっほう!

Heute konnte ich problemlos meine Doktorarbeit zur TU München abgeben. Ich freue mich darüber sehr!

2012年5月21日月曜日

ドイツ建築旅行 デッサウ

バウハウス発祥の地から電車で約二時間半、更にベルリンの方向へ走るとデッサウに着く。デッサウでは、郊外のバスで10分ほどのところに宿泊した。夕刻8時くらいに駅に着いたのだが、もうバスがない。途方にくれ、他路線のバスの運ちゃんに、ここに行きたいんだが、と聞くと、電話して予約すれば、一時間後に来るよ、と教えてもらう。腹を決めて電話をかけると、どうやら目的地を通過するバスがまだあるようだった。
親切な運転手が、ペンションまでの手はずを整えてくれた。

ペンションは、一泊4000円ほどで、こんなにいいところに泊れるの?と驚いたほど広い部屋。朝食も満足した。














バウハウス デッサウ
翌日、デッサウの街からグロピウスの設計したバウハウス校舎へ向かう。この校舎でも、またグロピウスの熱いなにかを感じた。とにかく、建築的エレメントと塗装とのコンビネーション、更に当時はセンセーションだったガラス張りのファサード。幅広い階段室や、照明とのコンビネーション。全てが、僕にはデカルト的空間とは全く異質のものに映った。これはとっても新鮮だった。これまで、グロピウスには、おせじにも感心がある、とは言えなかったからだ。ところが、今回の旅行でグロピウス建築に触れ、その素晴らしさにすっかり魅了されてしまった。
今回の旅では、ズントーのコルンバ、アァヘン近郊のファン・デア・ラーンに続く、三度目のノックダウンだった。

いいなぁ、このテラス。このボリュームはデッサウの駅からテクテク歩いていくると最初にぶつかるボリュームで、かつての学生寮。現在は、ホテルとして宿泊できるらしい。知らんかった。。がっかり。知っていれば、今アトリエ・バウワウとの学生寮の設計に生かすために宿泊したかったのに。。このテラスの出っ張りと、手すりの固定の仕方、そして下に反り返ったテラスの先端がエロい。

こちらは道路をまたがっている部分をくぐると現れる、正門。見よ、このガラスの壁。当時はこんなのなかったんだぜ、今はそこらじゅうに溢れているけどね。
旧校舎は現在は、バウハウス財団の本部として使用されていて、学校は入っていない、といっていた。しかし、この校舎とマイスターハウスのガイドツアーが終わった後、カフェで寛いでいる時にブラジル人の学生と仲良くなり、この校舎で短期で都市計画のセミナーを受けているといっていたので、何かしらそういった講座はあるんだろう。


階段室。広い。
なんでも、当時のデッサウは現在とは比べ物にならないくらい工業都市として栄えていて、特に、暖房機と塗装の会社がここの本拠地を構えていたので、それらの会社と協働することによって新しいものを生み出そうとしたらしい。
そうしたこともあって、この広い階段室、大きなガラスファサードに面しているにも関わらず、申し訳なさそうに暖房機が掛かっていたりする。こんなの効果があるわけねぇ。
ついでに、塗装が凝っているのには、そういった理由があったからなのだろう。この校舎のグロピウスの校長室は、ほとんどワイマールの校長室と同じような設えなのだけれど、塗装床材がいい感じの風合いを出していてる。名前は忘れてしまったが、これは非常に有害なものなので現在は生産されていないが、ユネスコに登録されているので、もし磨り減ってしまったとしたら大変なことになる。なので、将来的には床にガラスを敷いて、床材を保護することになるかも知れない、といっていた。このとても有害なので、という説明を聞いて、すぐにこの部屋から逃げ出したくなった。
デッサウは残念ながら大戦によって破壊され、昔日の面影はほぼない。



ガラスの壁のコーナー。これが昔は一大センセーショナルだったんだって。ガラスとガラスがぶつかって、透明な角ができている、と。


でも、今の世の中には、こんなものもあるんですよ、グロピウスさん。これは、フランクフルト・アム・マインにあるマッシミリアーノ・フクサス設計によるアーケード。


階段室の開閉できる窓を開けると、こんな感じ。鎖を引いて開閉させるが、意外に軽く引くことが出来る。


記念だから、この有名な角度からの写真も撮ってきました。東ドイツ時代には、これまた痕跡を残さないほど改築されていたんだけど、当時の姿を復元。こまけぇなぁ、と思ったのは、わざわざ壁に埋め込まれた一階部分の庇からの縦樋。でも、微妙に色が違うから目立つ。


マイスターハウス
バウハウスでは、技術を重視する教育と、造形力を重視する教育が二つの柱としてあった。そして、名前の由来は以前に説明したとおり、カテドラルの建設に関わった職人たちのように、物事を作り上げること。だから生徒は、レアリンゲ、ゲゼレ、そして教えるほうもマイスターという。これは、ドイツの職人養成システムをそのまま受け継いでいる。従ってマイスターハウスとは、先生たちの住む場所。現在は、戦争で破壊された一棟を復元中で、そのほかの住棟も見学することができる。クレー、カンディンスキーなどが好きな人には堪らないものがあるだろう。
ガイドツアーの女性が、ここでもフランクフルトキッチンが使われている、という話をしたので、ハウス アム ホルンの時にもそういう説明をしていたなぁ、と思ったので聞いてみた。
フランクフルトキッチンというのはたしか、エルンスト・マイがフランクフルトで建設した集合住宅に利用して普及させたものだと思うのだけど、それは商品化されていたの???
ところが、どうやら女性の動きに合わせたニュータイプのキッチンを、当時はフランクフルターキッチンといったらしい。なるほどね。

2012年5月20日日曜日

ドイツ建築旅行 ワイマール

ワイマールでの目的は、ゲーテとシラー(?)、そしてバウハウス。結局、2日と半日間もこの街を散策することになった。この街は本当に小さい。その気になれば歩いて10分で端から端まで歩くことが出来る。そんな小さな町がここまで有名になったのは、言うまでもなく、ゲーテとシラー、ついでにヘルダーのおかげだろう。バッハ、リストもこの街に滞在していた。
現在、リストの名前を冠した音楽学校に学生が1000人、バウハウスに4000人で、合計5000人ほどの学生が住んでいる。
そして街の中央の街路は、絵画的に美しい。天候が悪く、青空のときに撮影しようと考えていたら、結局撮影する機会を逃してしまった。そして、ゲーテとバウハウスに夢中になりすぎて、シラーハウスは見学しなかった。また次回(?)。

ゲーテハウス、in Fraunplan
実はこの内部空間が素晴らしいのだが、撮影禁止なのでアップすることができない。こちらは、庭側から見たゲーテハウス。ここで、色々植物観察してたんだろうなぁ。ゲーテの小宇宙は広大で、本当にあらゆるものに興味を抱いていたひとなだなぁ、と実感した。色の研究、そして建築まで。今度、これを機会にまだ読んでいないイタリア旅行に手をつけたいと思う。そして、このゲーテハウスの内部空間も、イタリア旅行に強い影響を受けた空間の連続になっている。まず、オーバーディメンションな階段室。ゆったりとした階段を登ると、黄色い部屋にたどり着く。この南北軸に、部屋が3つ連なる。この軸は、表の広場に面した街路と、庭とを結ぶ。そしてこれよりもさらに有名なのが、直行する東西の軸だ。中央の扉を開け放つと、かの有名なパースペクティブが現れる。旅行の直前、偶然にもゲーテハウスの扉の高さが事務所内でテーマとなり、興味があって調べたのだが、1,95メートルぐらい。かなり、低い。昔の人は本当に小さかったんだなぁ。各部屋は独特の色で着色され、彫刻がいい按配で配置され、非常に魅力的だった。そういえば、ボールト屋根になっている黄色い部屋の隣のブリュッケン部屋という名前の部屋の中央には、ミュンヘンの王、ルートビッヒI世がゲーテ80歳の誕生日に寄贈した彫像が配置してあり、大理石の本物は、ミュンヘンのグリプトテークにあるらしいよ。
そういえば、今回の旅行ではすっかり古典の世界にも触れ、特にベルリンでだけれど、息子のこれからのテーマは、神話世界と決めた。

ゲーテ、ガーデンハウス
こちらは公園の中に建つ、ゲーテ、ガーデンハウス。これは有名らしいけど、個人的にはあんまり興味の持てる代物ではなかった。ゲーテはワイマールに招かれ、当初はここに数年間住んでいたそうだ。この家から、当時の領主であったカール・アウグストの仕事場兼別荘にも使っていたというローマハウスを遠望することができる。ちょっとびっくりしたのは、二つも盲窓があるということ。そして、植物を壁に這わせるための木の柵は、なんと壁にねじで直接留めてある。まさか、あの時代にネジがあったわけでもあるまいに。。昔は直接釘でも打ってたのだろうか?その荒々しいディテールにちょっと感動。



クラナッハハウス
クラナッハが最晩年住んだという家が、マルクト広場にたっている。結構、この広場は重要だったらしく、ヒットラーはワイマールに訪れた際には宿泊したというエレフェントというホテルもある。完全に見逃した。

バウハウス ワイマール

バウハウスの歴史はワイマールから、そしてファン・デ・ベルデの繊維学校から始まる。ベルリンで活躍していた彼がワイマールに呼ばれ、繊維学校を創設したのが1908年。それから精神的に消耗した彼は、戦争の勃発を端緒としてその座をグロピウスへと譲り、1919年、バウハウスが開校された。最初に紹介するのは、ファン・デ・ベルデの設計した繊維学校の校舎。これがグロピウスが学校を引き継いだ後も使われることとなる。ユーゲントシュティルを彷彿とさせる表現。東ドイツ時代には違った用途して使用され、窓なども改築されて、現在の姿の痕跡もとどめないほど改築されてしまったらしい。これはデッサウのバウハウスの校舎も同じ。それを復旧し、現在はユネスコの世界遺産になっている。





バウハウスの名の由来は、様々な職能が一つになって作り上げられた中世のカテドラルをモデルとしているかららしい。最初の学校のワッペンには、ハーゲンクロイツまで入っている。このマーク、実はインドで使われる吉祥の印らしい。知らなかった。その後、イッテン、シュレンマーそしてクレー、カンディンスキーなどを先生として集め、1923年の展覧会を契機としてバウハウスは世界的名声を得ていく。
グロピウスの校長室。このランプ、憎いなぁ。バウハウスの建物と、次に紹介するHaus am Hornという住宅は、バウハウスの学生が案内をしてくれた。とても理路整然と説明する、チャーミングな女性でした。ちなみに、グロピウスの座っていたという椅子、どうも問題があるらしい。1.重心が後ろにあるため倒れやすい。2.背もたれが背骨にあたって痛い。3.机と椅子の間の間隔が狭すぎて、しっかりと座れない。右側にある整理だなに手が届かない。
これらのことから、当時、本当に使われていたかどうか、ちょっと不明である、とのこと。


こちらは、グロピウスがコンペで勝ったという墓地に建つ、労働紛争で死亡した人たちへの碑。グロピウスって、これまでなんだか漠然と、理論でしか建築しない人だと思っていたけど、なかなかどうして。ミースの建築を見たときにも感じたけれど、デカルト的数学空間という説明はあっていないのではないか、と感じた。そんなものよりも、時代のエモーションを感じる。この造形力はどうしたものか。









校舎からちょっと離れた場所にある、ワイマールバウハウスでは唯一実現されたというホルンにある住宅。この住宅と、グロピウスの校長室は1923年の展覧会のために作られたそうな。そして、ここはデッサウにて実現されるマイスターハウスのような、先生たちの住宅として計画された。
中央の高くなっている部分に居間があり、諸室は居間を取り囲んでいる。居間に落ちて来る柔らかい光は、ズントーのコルンバの塔の部屋を彷彿とさせる。キッチンは、フランクフルト形式。諸室は本当に装飾のない部屋で、唯一窓枠が金属で塗装されている。モダン建築の萌芽がここにあるといってもいいほど、新しい建築の型を提案していると思った。こまかいことになるが、縦樋を目立たなくさせるために、描くファサードを樋の幅だけへこませ、樋は四角い断面をしている。良く考えてる。






ドイツ建築旅行 ザツバァイ

ケルンから約電車で一時間、satzvey(ザツバァイ)というところに建つ、ペーター・ズントーの礼拝所、Bruder Klaus Kapelleを見に行く。


Brunder Klaus Kapelle, Peter Zumtor
事前に主要ルートをざっと書いただけの地図を片手に進んだが、合っているかどうか、不安は募る。途中、菜の花の茎に止まる鳥を見て、驚いたりしながら、約1,5時間ほど歩いた。目的の村にたどり着くと、遠くに礼拝所がポツーンとたっているのが見える。そこから、更に500メートル以上の距離がある。
不幸にも、30人ぐらいのグループとかち合ってしまい、これは、やばいと思って到着そうそう礼拝堂の中を見物した。しばらくして外に出ると、このグループが中に入ってゆき、延々と30分ほど居座り続け、その間、到着した人たちは、外で待ちぼうけ。そのぐらい、この礼拝堂は小さい。



外は荒々しい土壁。中に入ると、これがすごい。丸太をコンクリートを打つときのせき板にしているので、荒々しい棒の表情がむき出しになっており、棒一本一本のネガがギリシャの柱の縦方向に走る溝のような表面をつくりだしている。溝には、ガラス球が埋め込まれて、ほのかな光を通す。天井はない。パンテオンのように、雨が入ってくる。床の表面は手でこねたような後が残る独特の表情をしている。



三角形の扉も独特で、回転する軸が下部にしかついておらず、上部にはない。だから、この独特な三角形の扉をはめることができたんだろう。ただし、この造形はちょっとシャープすぎる気はしたのだが。
写真は撮るな、と書いてあるが、写真を撮っていない人などいない、という不思議な空間だった。帰りも、何度もヒッチハイクしようかな、と考えたけど、結局同じ道を歩いた。



satzvey集落
集落という言葉のにつかわしい家の集まりが、駅の近くにある。電車の待ち時間を利用して、集落を歩いた。一本の幹線街路に沿って、ハーフティンバーのかわいらしい家々が軒を連ねる。ドイツの町家は、妻側を強調する場合が多いが、ここもその例にもれない。
それにしても、見事に手入れされている美しい街並みなので、何か、しっかりした産業なり、工業(?)でもあるのだろう。
この小さな集落には小さな城があり、そこは宿泊施設にもなっていて、そのすぐ隣に中世の騎士などの催し物をするテーマパークみたいになっている。これは、息子が大きくなった時にケルンに行く機会があれば、また足を延ばしたくなる場所だった。以下にリンクを貼っておく。
http://www.burgsatzvey.de/